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天武朝(未了)

古代の天皇は、天智系、天武系の2系統に分ける事が出来る。

奈良時代はほぼ天武天皇の子孫が皇位についた。
すなわち、

天武天皇
文武天皇
元正天皇
聖武天皇
孝謙天皇(称徳天皇)
淳仁天皇(淡路廃帝)

である。持統天皇と元明天皇は
天智天皇の皇女であるが、
天武天皇の皇后、草壁皇子(文武天皇の父)の夫人でもあり孫や子が成人するまでのつなぎとしての即位であった。

天武天皇は天皇号を初めて用い
中央集権化を推し進めた。
律令を定め、藤原京の建設を企図した。
有力な古代氏族の大臣をおかず
皇親を要職につけた事に特徴がある。


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自身を励ますだけの記事

動物占いでは、チータだ。

占いによるチータの性格は
諦めの早いチャレンジャー。
見た目、肉体的動作は全くチータではない。
しかし、性格は衝動的でいとも簡単に冒険する。
また、諦めも早いので人生が積み上がらない。

実際の動物のチータも儚げな面がある。
陸上動物では足が速いが持久力はない。
瞬発勝負で狩りをするので
失敗も多く、飢え死にする個体もあるそうだ。

進化した動物占いでは細分化していて
「長距離ランナーのチータ」だそうである。

衝動的瞬発力を持続させられる性格ということか?
そうありたいが、近頃くたびれた。
体調が悪い。
老いとか死が迫っていると感じると言えば大げさか。

マラソンに優勝しなくても
せめて、時間切れとか、途中棄権にはならず
なんとか完走だけはしたい。
前のめりにつんのめって死にたいものだ。

前のめりに倒れて死ぬ。
それだけ祈って生きようか。

平城京と木簡の世紀読了

成果物としてまとまるのはいつの日か
とにもかくにも読み終えた。

歴史の本だから
「100ページで厭きる病」を克服したとは言いがたい。

政治史的記述、仏教、唐、記紀はすらすら読めた。
しかし、税制や考古学的な記述に関しては
疲労感を覚えた。

つまり、私自身 疲労感を覚えた分野は
勉強不足ということである。

私はかつて古事記を半強制的に読まなければならなかったことがある。
古事記は神々と天皇の系譜が多くを占める。
名前が難しく疲労困憊しながら読んだ。

ノートをとり、注をメモして
取り組んだお陰で、記紀に対する免疫はついた。
また、非常に興味関心を持てるようになった。

結局は苦手克服は
疲労困憊する状態から
逆に興味関心を持てるようにすることなのだ。

スピード学習の方法論は世にあまたあるが、
知識の基礎体力あってこそのものであると思う。
苦手な物事、不勉強な物事に
小手先の対策は通用しないのだ。

私自身遅きに失した気付きではある。
しかしながら、大抵のことは今後の人生で
習得できる見通しがたった。
最近ではネギの千切りがうまくなった。
(なぜ、左手を猫の手にするのかその理由がわかったからである。すなわち、第二関節を出張らせて指先を保護する為である。すると早く包丁を動かしても指を切る恐れがない。)

今後の人生に活かしたい。

加計学園理事長の呆れた会見

このグダグダ感はまだまだ続く。

獣医師が足りているか足りていないか
の議論がこの問題の本質ではない。

加計学園が獣医師を本当に養成出来る教育機関となりうるのか否か?
実は獣医師を養成する力はなくて(あるいは現時点準備不足であって)、開学認可を受けるのは無理筋であるのに
何か強い力で無理を通したのではないか?


が問題の本質だと私は思います。

安倍応援団は獣医師不足の深刻さ
獣医師会既得権益擁護の動きがある
その黒幕は(石破とか玉木)として
論点をずらそうとしています。

次から次に呆れた実態が浮かび上がって
詳しく見ていない人は何が何やらわからなくなりますが、赤字部分が解明されない限り今後もくすぶり続けます。

この赤字部分の解明はされるどころか
安倍首相はその説明を逃げ回り
さらに諸方面に権力者として圧力をかけて
疑惑に蓋をしようとした。

二重三重に罪を重ねている疑いがある。

残念ながら、安倍政権支持層が底固いので
解明は望み薄です。

後5,6年すれば今治の獣医学部の真価も見えてくるでしょう。
その時に全て明らかになります。
(そして問題があれば再燃する)

不祥事があっても悪びれず
告発者を嘘つきにして
トップが居直れればOKな社会。

日本は潔さを美徳とする社会だと思ったのですが、
「ネトウヨの嘲笑う韓国像」が
「安倍政権下の日本社会の実態」と重なって見えます。


性癖の話が検索上位に来る。

このカミングアウトは加計学園の疑惑で
前川喜平氏が告発される直前、
出会い系バー通いを
読売新聞社会面で報道された時に、
危機感を感じて投稿した記事です。

直言のブログを書いていたら、
いつか私も小さな真実に尾ひれをつけて
醜聞にされたり、脅迫の種にされたりするのではないか?そういう危機感と

自分はここまで己を晒して物を言うぞ。
私は馬鹿かも知れないが、
率直に嘘をつかずに何でも書くぞ。
という気持ちを表したくて書きました。

実は右派論壇の人達には、
自己顕示欲の強い人が多く、
安倍政権下で我が世の春を謳歌しながら
失態を繰り返す人が多かった。

虚勢を張っている人が多いと失望しています。
私は自分の実像と他人が抱く私の虚像が
離れていくのを放っておいたままにして
苦しんだ事があります。

例えば、女性経験の少なさをからかわれたので
恋愛の話を避けて生きてきたり、
多くの人からは理解されない性癖と
片想いの女性との間で何度も揺れたことなどありました。

行き着いたところが
自分を飾らず出来るだけ率直に正直に生きよう。
理解しいてくれない人、不快に思う人には
無理に説得などせず
マナーや節度を持って生きていこうと
いうことでした。

私は、日本は性に対して非常におおらかな伝統があると
思います。
蛮風などと言われる風習も数多くありました。
性的少数者が生きづらくなったのはむしろ明治からではないかと思います。

西欧のヴィクトリア時代(品行方正に見えて
抑圧された性の捌け口の皺寄せが弱者に来る時代)の
倫理観が直輸入されました。

そして、戦後もまだその呪縛が続いていると思います。
性のあり方の多様化=少子化ではないと思います。
大学、専門学校などの高等教育を卒業しないといい職にありつけない。
それが当たり前になりつつあるなか、
親になるべき若者世代は昔より貧しく
不安定な生活を送っていたりします。

また、変態と正常の概念は相対的なものです。
みんな家族や恋人に受け入れられるか悩んでいて
葛藤を抱えています。

同じ悩みを抱える人同士、
ネットで打ち明け合って生涯の伴侶を
得るような時代になって欲しいです。

そして、法整備が必要になってくると
思います。
民法の婚姻法の大改正がいずれ必要になると
思います。

ここはご皇室は男系存続すべき
という主張と
ねじれているところですが
男性と男性
女性と女性
女性一人と男性複数
男性一人と女性複数
男性複数と女性複数
で性的関係を結んで作る共同体を
「家族」という法人に定義するべきではないかと
考えます。

人間関係はややこしくなります。
しかし、強権的で復古主義的な少子化対策より
現実に即した未来でも運用可能な制度設計を
考えた方が私は良策だと感じます。


粟田真人(あわたのまひと)

この人は、奈良時代を調べて初めて知った人だ。

二度に渡り、唐に渡ったが、
彼の二回の渡唐の間には大きなタイムラグがある。
白村江の敗戦に伴う新羅、唐との緊張関係があり
大和政権は30年近く、シナに遣使していなかった。

その間、大和政権は東アジアの緊張関係に対処するため
王権の強化に努めた。
また、聖徳太子以来のシナ大陸の先進的政治制度導入に力を入れている。
この、シナ文化の大和政権の輸入移植は
政変が打ち続いても一貫して行われたように思える。

シナよりもシナらしい都 藤原京や
格式(施行細則)のない大宝律令など
古代日本になじまないものも
無理矢理シナ風に改める形で
天武・持統朝の改革は進められた。
粟田真人もその中心人物の一人だった。

天皇の称号
日本という国号
冨本銭という通貨
大宝律令という法律

これらの成果を引っ提げて
粟田真人は渡唐するのだが、
真人がシナ大陸の地を踏んだ時
唐は周という国に変わっていた。

唐は高宗の皇后であった武氏が
自ら帝位に即き(則天武后)、周という王朝が誕生していた。

粟田真人ら久し振りの遣唐使一行は
大いに驚いたに違いない。
(統一新羅は後ろ楯である唐の権威が揺らぐ事を日本に知られては宜しくないと唐から周への交替を伝えなかったらしい。)

粟田真人は人柄も容姿も立派だったようで
唐人からも称えられたりしている。
また、最大の成果は
倭ではなく日本という国号を認めさせ
唐帝国の王化の外の国になることで
かえって対外的に独立した地位を認めさせたことだと
私は思う。
真人は執節使(特命全権大使)として
優れた外交手腕を発揮した。

しかし、真人らのシナ文化の知見は
時代遅れのものだった。
私が想像するに
秦漢代から六朝時代までの文物に
通暁している人々が
唐の社会に現れたので
唐人達は古代の知識人がタイムスリップしてきたような
ノスタルジックな気分になったのではないかと
想像したりする。

江戸時代をよく知りそれを体現している異邦人が
現代日本に現れたら
私たちは大いに驚くし、
異国の人がよく我々の懐かしい昔の
スタイルを実践していると嬉しくなり感心するに違いない。

だが、真人らの任務は
帰国後の方が大きかったかも知れない。
真人ら遣唐使の帰国後すぐに
慶雲の改革が始まる。

それは唐風の制度と
古代日本の制度との折り合いをつけていく作業だった。

(参考文献)
講談社 日本の歴史4 平城京と木簡の世紀
渡辺晃宏 著

安倍政権の嫌いなところ

私が一番嫌いなところは

「やっている感アピール」が過ぎる点です。

別に森友学園加計学園疑惑の始まる前から
この点には危機感を感じました。

アベノミクスはチャンネル桜などを視聴していれば
成功しているように見えましたが、
実社会で誰かと話していると
中小零細企業や地方の景気の実感は依然として厳しかった。

私は公共事業がやはり景気刺激策として一番有効だなと
感じつつも社会構造の変化から従来型の公共事業では
ポイントを得ずバラマキの謗りを免れないと今は考えています。

どこにどれだけ予算を配分すれば良いかは
着実・正確な調査分析によらねばならず
最近の省庁のデータ改竄は正しい解決策を遅らせるものです。

民主党政権の最大の失敗は、
批判ばかりで、自らの政権運営のスキルを高く見積もっていた事にあります。
野党時代の机上の空論(それ自体悪いことではない)
を政権担当時にフィットさせきれなかった所にある。

それは、国民へのアナウンスに失敗した面もあるし、
机上の理論が未熟だった点もある。
さらには、如何なる国家を建設するか、
現実的な視野が足りなかった点もあるでしょう。

特に外交やマクロ経済の分野では
致命的な失敗もあった。

自由民主党に今後取って代わる政権は
既得権益層に一定の配慮をしつつ
改革を進めるスタイルでないと
政権交代の実を上げることは出来ないでしょう。

安倍政権は官僚を掌握していますが、
官僚のモチベーションを引き出せてはいません。
むしろ萎縮させ、優秀な人材が埋もれていくように
見えます。

イエスマンばかりで、異論を唱える事を許さない
組織は活力を失い硬直化、形骸化して
死んでしまいます。

官僚の人々を掌握し、モチベーションを高める為には
省庁を分割し、競争原理を導入するのも一案だと思います。
分割した人員で決算・監査・中長期計画部署を
独立させ権限を移譲する。

実は石破氏の防災省などはこのような隠れた意図を
含ませれば良いと考えたりします。
災害復興は大変難しいミッションです。
被災企業は設備をやっと復旧させても
従来の販路が無くなっていたりします。

また、被災の度合いに濃淡があり、
被災者それぞれの復興にも濃淡があります。
これを決め細かに支援するのはNPO法人だけでは
お寒い!!

大災害が毎年のように起こる我が国では
恒常的な復興支援の行政組織があった方が良い。
と、私個人は考えます。


未だにモリカケで突っかかると
思われるのも癪なので
具体策も素人なりに書いています。

拉致問題に関しても、第二次政権発足以降
何らの進展もみていません。
いまやトランプ大統領頼みになっています。
そしてそのトランプ政権は外交が迷走しています。

戦略というより、
あっちが駄目ならこっちというように
とにかく世界を振り回している印象です。
ロシアゲートの目そらしにも見える。

このような人が宗主国のボスになっている
時はピンチでもあり、チャンスでもあるのですが、
安倍氏のトランプ氏へのアプローチは
腫れ物に触るようであり、
安倍氏の度胸のなさ、小心さを見透かされ
今や舐められています。

ヤクザの恫喝にびびって、役所の職員が特別待遇を与えるようなものです。
毅然と突っ張ねるようでなければ
その職員は下衆の小役人の謗りを免れないでしょう。

トランプ氏は傲岸不遜のように見えて
取引先の利害得失には理解を示してくれる不思議な所があると思います。
ウィンウィンのロジックで説得するのが
私には一番効果的だと思います。

アメリカに一番良いように、
歴代大統領で一番優れた功績を打ち立てられるのであれば、柔軟に政策を変えてくれる
大胆さを秘めている。

本来地球は1つであって、
究極アメリカの利益も日本の利益も北朝鮮の利益も
同じである。
そのような道を模索しなければならないと私は思います。

陰謀論に関しても、
私は慎重に考えるようになりました。
イルミナティやフリーメイソン、
ユダヤ陰謀論などがあります。
私はそれを全て出鱈目と決めつけない。
地震兵器、気象兵器の存在も真剣に考える。

しかし、それらを鵜呑みにもしない。
こういう情報を意図的に流布して
憎悪を煽っている組織もあると思う。
それらに乗じられては元も粉もない。

私は世界を日本化すればよいとこのblogを
書き始めた頃考えましたが、
日本化とは
狭い国土に様々なルーツを持った人びとが
均一的な文化を持ちつつ多様性も保ってきた。
そのような秩序を全世界に緩やかな変化で打ち立てる
ことが理想ではないかと思うようになりました。

その方策は戦争ではなく、
広い意味での交易だと思います。
それも世界のモノ・カネ・情報の
偏りを解消する方向の交易です。







麻生氏「石破のどこが善戦なんだ」。。。安倍陣営が「潰す」と勝手にハードル上げたじゃない。

安倍氏は三選したものの、
議員票と地方票合わせて254票石破氏に入りました。

戦前は「石破に250票は以上取らせたくない」
「地方票で安倍氏がダブルスコアだ」
と息巻いていたので、処遇はどうするんでしょ?

最近の自民党の安倍氏への忖度ぶりには
目に余るものがあります。

秋葉での演説は、一般人を閉め出し、
動員かけられた人に配ったステッカー持ってる人だけ
近くに来させたとか。。。

どこの独裁国家だよ。
本当にこの政権はマスメディアを叩く割りには
マスメディアを思いっきり利用してます。
だから、インスタ映えばかり狙う。
見映えの良い映像を狙う。
カッコ悪いところは全部隠す。

上司の言葉で印象に残っている言葉があります。

「ええか、営業はどんな時でも顔はお客さんの方に向けていなきゃあかん。
会社は仲間やから、もめたとしても後から何とでもなる。だから常に営業の顔はお客さんの方を向いてなあかん。」

非常に感銘を受けました。
今の自民党の議員さんたちは何ですか?
総理にへこへこ頭を下げて、
付託を受けた国民に尻を向けている。

普段は本来の主人である国民をへいげいし
選挙の時だけ、
「○○をお願いします。一票お願いします。」
こんな虫のいい話があるでしょうか?

まあ、仕方がない。
民間人は民間人なりにしたたかに生きるしかありません。

治気養心の術と 仏教における無心または止観

思い付きですが

荀子の治気養心の術と
仏教の無心は通ずるものがある気がします。

私が荀子になぜ仏教との親和性を感じるかというと
晩年楚の蘭陵(山東省臨沂県)に住んだ荀子は老子の影響を少なからず受けているからです。
天など形而上の事をつまびらかに語らない姿勢も
釈尊の態度に似ています。

治気養心の術には、
心のバランスを取るように具体的な方途が
述べられています。

私はそれ単体ではわからなかったのですが
心のバランスを取ることが
「無心」とか「止観」ではないかと気づいた時に
この治気養心の術の方途が身近に感じられてきました。

すなわち、
感情の赴くところの対極に意識の重りを置く。
激情の波浪の中に烈志の錨を下ろす。

無心とか止観とかはその結果の
風景であって
その過程は恐らく水火激冲の葛藤が
必要不可欠なのだと思います。

愛国保守ならプーチンに抗議しなよ。総理に怒れよ。

浦塩に日本の総理が毎年訪問するというのが
おかしな話。

ウラジオストックの言葉の意味を知らないのだろうか?
ここでプーチンが平和条約の提案をした。
前提条件は無条件。。。
北方領土は置いといて、
という事になる。

舐められている。
トランプにも真珠湾の事を忘れていないと
捲し立てられて何も言えなかったらしいし、
(まあ、去年からわかっていた事だ。)

愛国じゃなくて
愛安倍なんだろう。

安倍がよければ
国が滅びようが、売り飛ばされようが
問題なし。

反安倍は勇気がいる。
だが安倍信者は流されていればいいだけなので
楽だ。
他の人は面倒な事が嫌なのだろう。
仕事や日常に忙しいのだ。

だから、支持率は4割から動かない。
物事を線の変化で見ず、
昨日は悪かった、今日は良かった
と近視眼的に見ると
この政権の悪質さはわからない。

1つの事案を定点観察している人なら
きっと腹立たしくなるだろう。

もはや、安倍信者や安倍応援団に何かいう気はなくなった。
しかしノンポリ・無党派層と呼ばれる人たちに
この政権の邪悪さ(この位強い言葉が適当だ)を訴える事は
必要なのかも知れない。

決意

私は向かうべき目的地を既に知った
目標を成就すべき道もまた知っている
迷いや恐れの心の生ずる原因も知り、
今さらどうして立ち止まる必要があろう。

一寸先の未来など永遠に来はしない
今やらずして何時やるのだ

実践のない思索など画に書いた餅だ
現在という時間は永遠に続くぞ

ぷよぷよゲームしたい。連鎖コンボを決めたい

安田記念は1600メートルのマイル戦
倍の距離3200メートルを走るのは天皇賞(春)
のっぴきならない淀の坂越え
三冠を目指す馬には最後の試練
羽の生えたような馬だったディープインパクト
烏(?)のように賢いシンボリルドルフ
のびのびと三冠レースを駆け抜けたミスターシービー

萩の花が咲き始めると秋競馬の前哨戦
生で見るのが一番だが、
田舎者の私は東京競馬場には行けなかった。
下総の中山競馬場は一度だけある。

村で日本一大きいのは滝沢村だった。
西瓜の名産地でもある。
村(今では市だが)スイカ色のガスのタンクがある。
のどかな所です。
反対に盛岡市に近くて便利。
目と鼻の先に県庁所在地がある。
を金持ちになったら家立てて住みたいなあ。
狙ってなれるもんなんだろうか?お金持ちって。
えーと何の話だったか?

外国にはグランドナショナルという障害レースがある。
堀の障害もあっただろうか?
埋もれているが、本場ではダービー以上とも
めちゃくちゃスリリングな障害レースだ。
よほどの騎乗技術がないと完走も大変。

報讐雪恨とは曹操の徐州攻めのスローガン
道理に叶っていないので、呂布に留守を狙われた。
各々思惑で動いた群雄たち
社会情勢が不安になっても私利私欲ではいけない。







赤信号みんなで渡れば怖くない。

ビートたけしさんのギャグだが、
本当にそうだと思う。
みんなで同時に渡れば怖くない。

それにしても何を書きたかったのか忘れてしまった。
頭が回らなくなったか?
パズルゲームとかすれば脳の活性化になるか。
ぷよぷよのようなパズルゲームが
携帯ゲームでよく出ている。

高得点を狙うなら連鎖を仕込まないといけない。
連鎖が決まると爽快だろう。

結局私はぷよぷよしたい。
連鎖コンボを決めたい。
ということが言いたいのだきっと。

ノートの取り方規則

筆記具使用規則
シャープペン 本文
赤ペン 重要事項、その傍線
青ペン 詳細な参考情報
桃ペン 事後記入
黄ペン 他者の見解
橙ペン 自身の見解
緑ペン 辞書、字典、事典の引用
翠ペン 解説書、他文献の引用
水ペン 私的注釈、フランクなメモ、訳文もこの色。

紙媒体で一度規則を紛失したので、blogにも備忘録を
残す為に記す。

眼鏡屋の角も愛しい。~私の仏教の好きなところ~

眼鏡屋の角も愛しもスピノザの神の時空に在ると思はば

という歌を詠んだのですが、説明書きは書いていませんでした。しかし、大阪の地震、台風被害。西日本豪雨。そして北海道の地震と立て続けに大きな災害が起こりました。

だから、この歌を詠んだ時の心境がしみじみ思い出されます。

私は東日本大震災でかけがえのない「ふるさと」山田町を失いました。

私にとっての「ふるさと」は津波が襲う前の山田町です。復興していく山田町はあくまで新しい町。
出勤時、山田湾対岸の霞露ヶ岳に隠されていた朝寝坊な太陽の光に養殖筏の無数に浮かぶ入江がキラキラと輝き
大島小島がのどかに浮かぶ風景は、
この地に生まれた幸せと誇り毎日感じさせてくれました。

父と喧嘩して、忌々しい思いで敷居を跨いだ我が家の玄関を私は未来永劫またぐ事は出来ないでしょう。
印刷機を回すときのインクの匂いや、
母が美味しい料理を作ってくれた、築50年のくたびれた
台所も蘇らせる事は出来ません。

だから、私は「ふるさと」を失ったと思います。

しかしながら、山田町への愛着が無くなることはありません。
私にとって「ふるさと」は増える一方です。
山田町が遠くなった分、お墓のある宮古市、
御先祖ゆかりの地、和歌山県御坊市、玉置神社のある奈良県十津川村。
いや、日本国すべて地球すべてがふるさとになりました。

山田町には明治時代に医者として教育者として
町の振興に多大な貢献をした安倍長俊という方がおられます。
歌人でもあった長俊先生は辞世の歌を詠んでいます。

世の中の勤めも終えてふるさとに帰る今日こそ楽しかりけれ

この歌のいうところの「ふるさと」とは
極楽浄土のことです。

私は死んだことがないのでわかりませんが
浄土真宗門徒にとっては
極楽浄土もまた「ふるさと」だと
この歌を読んだときに感じました。

命を終えて亡くなった人と再開できて
みんなで仲良く暮らせるご浄土に
私も今生、娑婆世界で課された勤めを立派に果して
往生したいなと切に思います。

やあやあ、お前も頑張った。ご苦労さんご苦労さんと
有縁の人に労われるように、
胸を張ってあの世にいけるような人間になりたいものです。


さて現在、私は北上市に住んでいますが、
幼少期より眼鏡屋さんの角は北上の中で印象に残っていて思い出深い。

しかし、30数年の歳月は北上市を大きく変えました。
全国的な事ですが、町全体がくたびれた感じがする。
やはり、工場の集積地として人が集まった
2000年代が一番繁華だったようです。

これを再び、いや今まで以上に栄えさたい‼
という気持ちはあります。
何で貢献できるかわかりませんが、
未来に向かって、私の人生に課せられた役目を
果たしたい。

しかし、思い出の「ふるさと」は永遠に帰ってきません。
この眼鏡屋さんの角もいつか消えて無くなるし、
眺めている私もいつか死んでしまう。。。

そんな風に考えると
眼鏡屋さんの角がとても愛しく感じられました。
永遠の中の二度とはない一瞬に
自分は生きている。

青春時代に読んだ「ソフィーの世界」を
思い出しました。
スピノザはスファラディのユダヤ人でした。
神即自然という汎神論的な世界観を提唱したのですが
理解されず、ユダヤ教コミュニティからも追放されてしまいます。

晩年のスピノザはレンズ磨きの内職をして
貧困のうちになくなりました。

私はスピノザの思想に、東洋的なものを感じ
親しみを覚えた記憶があります。

天地自然の道理の中で私たちは生きている。
自然は時に牙をむくこともあります。
しかし、私たちは為す術はないし、
普段はその何百倍の恩恵を受けています。

災害にいつ遭遇するかわからない。
だから私は今生きている一瞬をもっと愛さなければならないと思いました。

歌の心はそんなところです。


仏教と言いますが、
出発点は宗教というより哲学的な色合いが強いです。
釈尊は神様ではなく
悟った人、目覚めた人です。

何に目覚めたかは、
私は仏様ではないのでわかりません。

しかし、縁起という観点を世間に提示しました。
人はお互いに関わり合うことで
自らの心のありようを知ることができる。
だから、縁起(人と人との関わり合い)の意味を問いなさい。

その際に様々な執着や欲望は、縁起を見る眼を曇らせるから我執我欲を離れなさい。
そして縁起を正しく観察して、
それから生まれる「気づき」を大切にしなさい。

というような内容ではないかと私は思います。
しかし、お釈迦様の悟りは実際はもっと玄妙なものであるし、完全なものであると思います。

お釈迦様は悟りを開いて喜びましたが、
教えを説き広めようとは思いませんでした。
微妙な教えが人々に理解されるとは到底思えなかったからです。

お釈迦様は安心の境地を自分だけのものとして密かに保とうとしました。

するとこの世の支配者である神、
ブラフマンとインドラが現れて
「このままでは、仏の智慧が世に広まることなく
終わってしまう。
どうか、世尊よ。仏法を世に説き広めてください」
と懇願しました。

お釈迦様は瞑想に入ります。
川に咲く蓮の花が目に見えました。
蓮の花の状態は一様ではありません。

泥の中にまだ埋もれているもの
水面から顔を出したもの、
今まさに花開かんとしているもの、
既に美しく咲いているもの。。。

衆生の機根もそうではないか?
私の悟った内容を少しだけ理解できるもの
大いに理解できるもの、
完全に理解できるもの、
全く理解できないもの、
がいるはずだ。

私はそれらの人々の心の状態に合わせて
私が今悟った事を説こう。
こうしてお釈迦様は自らの悟りを世に広める決意をしました。

お釈迦様はよく名医にたとえられます。
人の病気には様々な症状があります。
それに対する薬も様々、治療法も様々です。
仏様は誤りなく患者の症状に合わせて
薬や治療法を処方するかの如くに
教えを説かれます。

これは凡人にはなし得ない事です。
凡人が出来もしないのにこれを真似すると
大事故になります。
下痢の人に便秘薬を処方するような事が起こったり、
もっと深刻な医療ミスを起こしかねないわけです。

だから、私は内心の自由は大事だなあと
しみじみ思います。
人の心を変えうるのは天地自然の道理。
すなわち縁起でしか変わりません。
仏様は天地自然の道理を悟り、
天地自然の道理のままにいきることを実践している人です。

だから赤の他人が「やいのやいの」その人に教えを垂れるのは無意味であり、
天地自然の道理と縁起(事物・人間との関わり合い)によってのみ人は「気づく」事ができる。

だから、恩着せがましく教えを説く教祖様には
私は胡散臭さや、危うさを感じます。

もし神様と呼ばれる存在がいるなら
私も宇宙すべてが神様であり
万物に宿る八百万の神は実は一体であって
一なる神の存在を身近に感じさせるための
方便であると感じます。

私は、人に
「ああしろ、こうしろ、あれこれしろ」と
アドバイスは出来ません。
天地自然の道理に沿った生き方を目指すことだけが
お釈迦様が私に願われている事のように思います。

キリスト教徒でありながら
仏教をまなぶ人々もいるようです。
仏教の智慧にふれて
キリストの愛に対する理解が深まるのだそうです。

一瞬をもっと大事に生きなければならない。
今平凡に生活出来る幸せを改めて感じる今日この頃です。





8月のTODO見直し

平成30年8月8日作成
(平成30年9月1日 進捗を確認すること)
※実際は9月4日に確認した。


歴代天皇
藤原氏(実際は蘇我氏)がらみで調べるに留まる。

元号と同時代の出来事
日本の出来事のみ光仁朝まで調べる。世界史はなし。

奈良の政治家
飛鳥時代の皇親のみ調べた。しかし奈良時代までは至ら ず。
藤原氏系譜
結局未着手。藤原氏長者、摂政関白、太政大臣、南北式 京あってまとめるのに悩む。

把握しているのは
氏長者には三種の神器のような家宝がある。
太政大臣は後代、名誉職になる。
式部卿は官僚の人事を所掌するので有力な官職だった。

平家系譜
源氏系譜
鎌倉幕府歴代将軍
北条氏執権・得宗家系譜
室町幕府歴代将軍
三管四職
関東公方、関東管領
徳川歴代将軍
明治政府要人
歴代内閣総理大臣
以上は未着手。

他分野
キリスト教
なし。

荀子
勧学篇 書写了
修身篇 わずかばかり。
他篇 ちょこちょこ読む。議兵篇、天論篇など。
荀子が後世まで地元臨沂県で尊敬された事がわかる。
生真面目な文体だと感じた。
人の性は悪か善か?
(私見、仏教的には正負なく空というか、ゼロではない か)
という形而上の問いはさておいて、
乱世の中に平和な秩序を模索した人だと思う。
荀子はF.ベーコンやカントのような博物学者的な面が あると思う。

礼の概念には形骸化したり偽善的になる事もあるが、
その規を守れば、誰しも内心の自由を守れる。
私は古代シナ世界の儒教倫理をそのまま肯定するわけで はなく、現代社会における、全世界的な礼の確立が、
世界平和に到る道ではないかと感じる。
聖徳太子も十七条憲法で礼を重視している。
五行では礼は火の徳にあたる。
文明に火は不可欠である。

アメリカ大統領
なし

地理学
ケルハルト・ヘルムの「フェニキア人」を読んでいる。
私にとってフェニキア人はカルタゴのイメージが
強かった。
しかし、レバノンで栄えた民族でカルタゴは分家のよう なものだ。
発祥の地はなんとシナイ半島のベドウィンだという。
ユダヤ人と民族的に近しい。
カナン人である。
カナン人とそこに侵入してきたギリシア系の海の民が
フェニキア人の元になった。

彼らはレバノン杉を建築材、船材として
エジプトと交易する事を生業とした。
しかし、エジプトの王権が不安定になると
バビロニアとの交易も始める。

海の民とカナン人が混淆すると
フェニキアは独立し、竜骨船を建造して
地中海に進出した。喜望峰を回って紅海に到達
したらしい。彼らはジブラルタル海峡を抜け
モロッコやアイルランドまで航海した 。

英単語
なし

易経
着手できず

法律
なし
日本史の律令は多少ノートした。
公式令、古文書、詔勅関係。
天皇が裁断を下す際に、日付を書き足したり
大臣が連署したりする取り決めが興味深い。

釈尊の法(ダルマ)と荀子の礼

お釈迦さまの悟りとは
玉城康四郎先生はダンマ(法)があらわになる
とお経の訳を引きながらおっしゃっておられました。

荀子を読んでいますが、
礼=ダンマ(法)に置き換えると私にはしっくりします。

外交儀礼をプロトコールと言いますが、
IT用語になっています。
プロトコールで定められた通りにプログラムを設定しなければ意思疏通出来ません。

私は全世界に共通のプロトコールがあれば
いいのにと思います。

残念ながらグローバリズムは
アメリカ化か欧米化、はたまたこれからはチャイナ化です。

文明がそれぞれ独自のライフスタイルを維持しつつ齟齬をきたさないようなプロトコールは出来ないものだろうか?

歴史を省みればほとんどそれは絶望的で、不可能な課題ですが、地球が疲弊している時に人類がいがみあっていてばかりではいけないと思います。

これだけ密接に世界が結び付いた時代もないのですから、諸民族はそろそろお互いに折り合いをつけるべきではないでしょうか?

実は荀子の礼を至上とする考えに
私は最近希望を持つようになりました。
日本人的なのかも知れませんが、
孟子も荀子も憎めません。

荻生徂徠という人は荀子を孟子の足らざるところを補った人と評価していました。

しかし、朱子は「脱穀前の玄米のような思想であるから読んで学ぶには値しない」と弟子に語ったそうです。

日本人は論理的でなく情緒的だと言われますが、
ニュアンスで理解できるという長所もあるかと思います。

建前と共にニュアンスで相手を理解し合えるような
世界になればよいと思います。

朝鮮・韓国・中国の人との見解の相違も
遺伝子レベルではなく、後天的なものだとの
思いを強くしています。
互いの無知無理解が差別偏見を生むのです。

ただし、風土が培った悪習というのは
厄介なものなのは確かです。
悪習はいかなるコミュニティでも改善されるべきです。
よく理解せず悪習と断ずるのも良くないと思うし、

やはり、仁とか愛とかいう、温かい血が通った精神の発露としての礼でないと正しい分別はできないと思います。

これが非常に難しい事だと、私自身に絶望するのですが
この道しか人類の平和・繁栄はないなと
そう、思います。


石破茂惨敗か? 安倍三選、屋上屋を重ねる改憲、安倍の天下。

昼間なのに暗いような世の中だ。
行政に対する不信感だけが私は高まった。
灯の無い世の中だ。

でも、安倍政権の災害対応は酷すぎないか?
頑なに国会を開かないし、補正を組む気配もない。
張り切っているのは地方行脚で総裁選対策。
レジスタンスのような動きも党内にはない。

私は元々はノンポリだったが、
小泉政権で自民党が嫌いになった。
地方切り捨て、弱者切り捨てに思えたからだ。

彼はうまくて狡い。
政治家の言葉を軽くした。
竹中平蔵を重用した。
自民党の体質を変えてしまった。

ただ、手腕は評価する。
郵政解散は見事だった。
拉致被害者5人とその家族を取り返した。
潔さ、思いきりの良さがないと出来ない事だ。

それに較べて安倍氏はモリカケから逃げている。
安倍応援団はモリカケは石破の陰謀だと吹聴している。
石破茂と獣医師会は親密であるのは確かなようだ。
しかし、私は抵抗勢力、既得権益層とレッテルを張り
規制を緩和すればよいという風潮には強い抵抗感がある。

なぜならば、小泉改革で痛い目にあったからだ。
経済がデフレ局面で規制緩和をしたら
デフレが悪化するだけだ。

公共事業が必要である。
しかし、それは必ずしも大規模事業に限らない。
例えば公立校の教室にクーラーを入れる。

荒廃した中心市街地の区画整理を行う。
高速道や国道を作るときのように
地権者が立派な家を建てられるくらいのお金で
買い受ける。

行政が更地にしたら
建てるのは地方の民間資本だ。
バリアフリー、利便性、コミュニティセンター、
出張者にうれしい施設。
安いけど長く遊べる施設。
(例えば定額遊び放題ゲームセンター)
学生が集まれば活気もでる。

チェーン展開の大企業は
開発運営は地元に任せてテナントに入ればよい。
撤退もしやすい。

これなら私はパブリック・プライベイト・パートナーシップも大賛成だ。
行政・地元中小企業・大企業三者それぞれ
お互いに持ち味を活かせばよい。

ところが、今の大企業はウォルマート戦略ばかり
商店街を潰し、売れなくなると、撤退して
買い物難民を作り出す。

PFI方式は大企業同士のお友達が囲い込みをはかり
トリクルダウンも真っ青の中小零細企業や地元企業の閉め出しを行っている。

カジノはパチンコ屋撲滅の為に導入するらしいが、
それなら公営ギャンブルにテコ入れした方がよくはないだろうか?

何となくトランプのお友達のアデルソン氏が儲けるし、
更にパチンコ屋さんはむしろ新しいビジネスチャンスを感じるだけではないか?

。。。しかし、石破氏は惨敗だろう。
安倍三選は確実だ。
インスタ映えを狙っている総理。
余裕だ。

更に改憲まで進めるし、
衆参ダブル選挙もある。
議席を確実に減らすと言われた昨年の選挙も勝った。

安倍氏は屋根の上に屋根を葺く改憲をしようとしている。

実態に合わないルールは
現場の自衛官の苦悩を増やすばかりだ。

嘆かわしいことだ。

乙巳の変(権力の推移を中心にしたノート)

推古朝の時代は蘇我氏全体の極勢期と言える。

記紀によれば、
葛城氏、平群氏
大伴氏、
物部氏などが主要豪族だったが、
蘇我氏は大王の后を多く出す事で
外戚としての地位を確立して
実権を握った。

他に朝廷の財政や渡来人との結び付きが
強かったのも背景にあると思われるが、
やはり大王の外威としての立場が
生命線であったように思われる。

推古天皇には実子に竹田皇子がいたが
夭逝してしまった。
聖徳太子も長く皇太子として政務を見たが
推古天皇より先に亡くなってしまう。

推古天皇が皇嗣を定めずに崩御したことが
蘇我氏の衰微の発端となった。
蘇我蝦夷らの裁定により、
欽明天皇嫡流の舒明天皇が即位したが
舒明天皇の生母は蘇我氏ではなかった。

蘇我蝦夷という人は、バランス感覚がある人だったかもしれない。
中臣氏や大伴氏、物部氏ら他氏族の意向も尊重したのだろう。

しかし、蘇我系の皇子は山背大兄皇子や
古人大兄皇子もいる。
蘇我氏内部でも異論があったのではないかと
私は考える。

その後舒明天皇も在位年が短く
崩御する。
皇后が皇極天皇として即位するが、
皇嗣問題の難しさ故の「つなぎ」の即位であろう。

ここで、山背大兄皇子を蘇我入鹿が攻め滅ぼすという
事件が起こる。
私見であるが、蘇我本宗家と他の蘇我氏との内紛の
側面もこの事件にはあったのではないか?

若く、野心家の蘇我入鹿は他の氏族は恐るるに足らず
蘇我氏を掌握し、祖父の馬子時代のように
大王の外戚として権力を振るうべく
山背大兄皇子よりも御輿に担ぎやすい皇族
(例えば古人大兄皇子など)を探していたのではなかろうか?

蘇我蝦夷・入鹿親子は露骨に権勢を誇るようになるが、
蘇我入鹿の朝廷掌握を急ぐとともに
他氏族からの反発に対して警戒もしていただろう。

この蘇我本宗家に反発した蘇我氏族の代表格が
倉山田石川麻呂だと思う。
また、舒明天皇の皇子である中大兄皇子、
中臣鎌足(蘇我氏に排除されてきた他氏族)
彼らの後ろ楯として軽皇子(皇極天皇の兄)がいて
645年の乙巳の政変は起こった。

軽皇子が即位し孝徳天皇となり、
皇太子に中大兄皇子がなったが、
中大兄皇子はまずは聖徳太子のように
政治の実権を握る事を考えたに違いない。

孝徳天皇は皇極天皇の兄であるが、
皇位継承の面から言えば、
中大兄皇子の方が嫡流である。
だから孝徳天皇も「つなぎ」の天皇に
なるはずだった。

しかし、孝徳天皇にも皇子がいた。
有馬皇子である。
孝徳天皇は即位後、皇太子である中大兄皇子でなく
実子である有馬皇子を皇嗣にしたくなったに違いない。

その辺りの確執が
皇極上皇や中大兄皇子の飛鳥還都に
つながったのではなかろうか?






山峡の家に咲く百日紅を見て詠む

山越えの道の端なる百日紅狂いし夏も健やけく咲く

今年の夏は暑い時はバカみたいに暑く
涼しい時は肌寒いくらいです。
雨は極端に大雨だったり
旱だったりします。

そんな中でも百日紅の花は
元気に咲いているように見えました。

百日紅の花は緑濃い夏の景色に
彩りを添えてくれる花です。

私は一年通して、梅の花が好きです。
梅の花は他の花に先駆けて咲き、
春の訪れを皆に告げます
寒の戻りにも堪え続け、
やがて春の季節が確かなものとなる頃、
暖かな日差しの中でハラハラ、ヒラヒラと
楽しげに散っていく。

花の香りも甘酸っぱく、
梅の実も美味しい。
梅酒も好きです。

父祖の地和歌山は梅の産地であり
菅原道真公の愛した花でもあります。

私がいなくなっても梅や百日紅が美しく咲く
日本国であって欲しいと願いますが、
所詮は諸行無常です。
遠い未来に弥勒菩薩が悟りを開くところは
竜華樹という木の下だそうですが
56億7千万年後の沙婆世界に咲く竜華樹の花も
見てみたい。

一体どんな花なんだろう。

仁愛と憐れみをもって世を照らす秋の太陽が

仁愛と憐れみをもって照らすはずの太陽が邪悪と暴虐の光で地上を覆う。
この邪悪な謀をいつの日か阻止しよう。
よい考えや意見には従わず、本当は良くない意見を良いものとして用いている。
私はこのような政治の有り様を見てとても心が傷む。

都合のよい時はくっつき合い、かと言って裏では罵り合う、とても悲しいことだ。
国の為になるよい意見は反ってみんなで握りつぶし
国の為にならないよくない意見にはみんなして従う。
このような政治の有り様ではどうして行き着く事ができようか?

私は憂いにまかせて何度も亀卜を行い、
亀卜も私に指針を与えてくれなくなった。
あれこれ意見をいう者は山ほどいるが、
決して一致結束することはない。
発言は宮廷に様々満ちているが、誰も発言の責任をとろうとしない。
地図も見ず、下調べもせずに旅に出るようなもので目的地に辿り着くことも覚束ない。

悲しいことだ!
政治を行うのに先人の良き例にならうことなく、
大事業を計画するなどと言っても
大きな道理には従わず、
目先の話、身近な者の意見ばかり聞き、
卑近な事、些末な事でばかり争っている。
道路の上に家を建てようとするようなものだ。
(みんなが使う道の上に家を建てたのでは
往来の者が大迷惑である。)
だから、その家は出来上がる前に、
(往来の人々の怒りを買って)
撤去されてしまうだろう。

国は安定しなくても、聖人が存在する時もあればいないときもある。
民草は豊かではなくても、知恵のある人、アイディアを持っている人、厳正な人、人格の立派な人はいるものだ。
これらの人々が泉から湧き出る水の如く現れて
お互いに協力し合うから国家というものは滅びないのだ。

(国政に携わる者は)
虎に素手で立ち向かったり、大河を歩いて渡るというような無謀な事をしてはいけない。
人は1つの物事に通暁していても他の事は知らないものである。
だから国家の政は深い淵に近づくように、薄氷の上を踏むように恐る恐る慎重に進まなければならない。

この詩は今の御政道を批判したものではありません。
荀子の修身篇に一節が引用されていた詩経の小雅・小旻(しょうびん)という詩を私なりに意訳したものです。

この小旻という詩は、
周の第十二代の幽王を諌める為に作られたと
言われています。

周の幽王にはホウジという美しい妃がいたのですが、
全く笑わない女性だったと言われます。
幽王はホウジの笑顔を何としてもみたいと
あれこれ手を尽くします。
絹が裂ける音を聞くとホウジは少し微笑んだので
幽王は国中の絹織物を引き裂かせました。
幽王は妃の機嫌を取るために理不尽な事ばかり行ったので政治は乱れ、人心は離れて行きました。

極めつけは、ホウジを笑わせるために
異民族の来襲時にだけあげる狼煙を頻繁に上げさせたことです。
ある時、誤って狼煙があがり諸将が
勇んで駆けつけたのですが誤報だと知らされて
諸将はみな肩透かしを食った顔をしました。
その表情をホウジが見てケタケタと笑ったのです。

幽王は気を良くして、
たびたび何もないのに狼煙をあげさせ
諸将を集めましたが、
笑われる諸将にとってはたまったものではありません。

幽王が狼煙をあげても
誰も信じなくなりました。

幽王には別に正妻と太子がいましたが、
ホウジを喜ばせる為に正妻と太子を廃して
ホウジの子を太子にしてしまいました。

廃嫡された王子一派は異民族と手を組み
周の都を攻めました。
幽王は諸将に知らせるべく狼煙をあげましたが
誰も本気にはしませんでした。

周の都は異民族に蹂躙され
幽王とホウジの子は殺されて
ホウジも異民族にさらわれて行方知れずとなりました。

紀元前771年の事です。
周はもともとの都鎬京が破壊された為に、
東の洛邑に都を移しました。
幽王までの周王朝を西周といい、
洛邑遷都後を東周といいます。

この約2800年前の古代人の嘆きが
現代でも色褪せないように思うのは
果たして喜ぶべきなのか?憂えるべきなのか?

蘇我氏

万葉集の冒頭は
雄略天皇と舒明天皇の歌で始まります。

舒明天皇は天智天皇と天武天皇の父であり、
奈良時代は天武系の天皇が続き、
孝謙女帝崩御の後は天武系が断絶。
天智天皇の血筋を引く白壁王が
光仁天皇として即位し、現代の皇室につながります。

舒明天皇は天智・天武両帝の父であり、
また、欽明天皇の嫡流になります。
系図的に見ると用明天皇、崇峻天皇は
敏達天皇の弟にあたります。

用明天皇、崇峻天皇、推古天皇は
庶流にあたると考えられ、
敏達天皇の嫡子・忍坂彦人大兄皇子の
血脈が正統であるとの意見が根強かったと思われます。

用明天皇の皇子である聖徳太子、
その子の山背大兄皇子が皇位に即かれなかったのは
その辺りの事情があるかも知れません。

また、忍坂彦人大兄皇子は茅渟王という王子も
もうけていて、斉明天皇と孝徳天皇の祖父でもあります。

舒明天皇は欽明天皇嫡流として
重要な血筋にあたるので、万葉集の二番目に歌が
載っているのかも知れません。

さて、私は雄略天皇は古代日本の最盛期の大君だったのではないかと考えます。
即ち倭王の武であり、ワカタケル大王の事です。
479年、502年と梁書・南斉書に遣使の記録がありますが、その頃に日本の岩手県南部~朝鮮半島南部にかけて
雄略天皇は勢力を広げていたと考えます。

もっとも、その支配は磐石ではなく、
聖徳太子の登場する時代には
朝廷の権力は次第に退潮していたのではないでしょうか?

古代的な氏族制度の王権は東アジアの情勢に対応出来なくなり、シナ大陸の律令制度という中央集権システムに
移行しようとしたのが、飛鳥・奈良時代ということになるのでしょう。

隋唐の文物・制度を取り入れる担い手となったのが、
飛鳥時代の蘇我氏と奈良時代の藤原氏です。
この2氏は天皇の外戚として権勢を振るった点も似ています。

諸豪族の連合した神権政治から
天皇の世襲が固まった集権政治に移行し、
職能でなく、外戚として権力を掌握する先駆けとなったのが、蘇我氏であり、藤原氏はそれを真似たのかも知れません。


蘇我氏は蘇我氏自体が渡来人である
との説があったようですが、その説は現在は否定的です。
記紀によれば孝元天皇の三世の孫
武内宿禰の子、蘇我石川が蘇我氏の祖とされます。

○蘇我石川宿禰
応神朝の人物とされる。

○蘇我満智(そがのまち)
履中天皇二年、執政官となる。
雄略天皇の御代に三蔵を
(斎蔵(いみくら)、内蔵(うちくら)、大蔵(おおくら))を
検校させるとの記事あり。
彼の代から朝廷の財務を蘇我氏は管理していたようである。

○蘇我韓子(そがのからこ)(~465年)
465年 新羅征伐に参戦し紀大磐と不和になり、
いさかいの中で溺死。

○蘇我高麗(そがのこま)(生没年未詳)
業績の記録なし。
(私見・韓子と同一人物と考えられないか?)

○蘇我稲目(506?~570)
宣化天皇(535~539)
欽明天皇(539~571)
の二代に渡り大臣となる。

物部尾輿と権勢を競い、
仏教の受容を巡り対立した。
この争いは次の世代の
物部守屋(もののべのもりや)の
討伐により決着した。

○蘇我馬子(そがのうまこ)(550?~626)
敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇に大臣として
仕え蘇我氏の最盛期を現出した。
邸宅の庭に島を浮かべた池があったことから
嶋大臣の通称がある。

○蘇我蝦夷(そがのえみし)(?~645)
豊浦大臣の通称がある。
叔父である境部摩理勢(さかいのべのまりせ)を殺害し、
甘樫丘に邸宅を営みミカドと呼ばせたり、
息子の入鹿(いるか)に紫の冠(官位十二階では最高位の色)を授けたり、弟に物部大臣と名乗らせたりした。
乙巳の変で入鹿の死を知り自害。

○蘇我入鹿(そがのいるか)(?~645)
父蝦夷と共に権勢を誇り反感を買う。
乙巳の変の二年前には、山背大兄皇子を討ち
一族を自害に追い込む。
また、畝傍山に城塞を築く。
645年に飛鳥板葺宮で中大兄皇子、中臣鎌足らに
討たれる。

蘇我本宗家は入鹿で断絶。

○蘇我倉麻呂(そがのくらまろ)
蘇我馬子の子。

○蘇我果安(そがのはたやす)
壬申の乱で近江方に与し自害。

○蘇我日向(そがのひむか)
蘇我石川麻呂の謀反を讒訴。

○蘇我連子(そがのむらじこ)
蘇我氏の血脈を後代につなぐ。
娘の蘇我娼子(そがのしょうじ)は
藤原不比等の妻となり、
武智麻呂(藤原南家)
房前(藤原北家)
宇合(藤原式家)の母となった。


○蘇我赤兄(そがのあかえ)
有馬皇子に謀反を唆す。
壬申の乱の後流刑。

○蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)
謀反の嫌疑をかけられ山田寺で自害。

○蘇我安麻呂
病床に臥す天智天皇を見舞う大海人皇子に
「よく考えて返答をするよう」忠告する。
石川石足(いしかわのいわたり)の父


以上、蘇我氏の歴代です。
古い歴史には不可解な点も多々あります。
私たちはサスペンスのように事件の黒幕を探したり、
悲劇の英雄に心を寄せたりしますが、
全て引っくるめて、先祖の叙事詩だと私は考えます。

このことを考えるとき
時代は違いますが、
崇徳上皇の
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末にあはんとぞおもふ。

という歌や、

原敬の
「誰か朝廷に弓引く者あらんや、戊辰戦役は、政見の異同のみ」
旧南部藩士戊辰殉難者50年祭における祭文
の言葉が私は頭に浮かびます。

私はそんな風に歴史を捉えたいです。

舒明天皇の御製歌


舒明天皇
天皇(すめろぎ)の、香久山(かぐやま)に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌

大和には郡山(むらやま)あれど
とりよろふ天の香久山(かぐやま)登り立ち
国見をすれば国原は煙(けぶり)立つ立つ
海原(うなはら)は鴎(かまめ)立つ立つ
うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま)大和の国は


この歌は私、大好きです。
しかし、なかなか諳じられません。
かまめ立つ立つ、けぶり立つ立つ
と繰り返すところが印象的です。

うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は。。。

大真面目な話で、このように歌に言祝がれるような
内実のある日本国でずっとあり続けて欲しい。

実際は困難でも、あえて言祝ぐ習慣も私は好きです。
冬の厳しい時期に初春として正月を言祝いだり、
白雪を花に見立てたりします。

いつか、狂言の中継を見ましたが、
(なんという演目かわかりません。)
太郎冠者が主人から酒を山越えして
誰かに届ける役を仰せつかって
何頭かの牛を追いながら、山を越えます。
降りしきる雪、強い風、牛の姿が
本当に目に見えるような気がしました。

太郎冠者は難儀して、途中で人家に立ち寄るのですが
そこで茶をご馳走になって人心地つきます。
そのお返しにと家の亭主に
積んできた酒を振る舞い、自分も飲んで
大いに酔っぱらってしまいます。

この酔っぱらった時に、
寒々しい雪山を「山一面、白い花が咲いたようだ」と
見立てて喜びます。
その後、積んできた酒を空にして、
自分の主人に大目玉を喰らうという粗筋でした。
(確かお正月に見た記憶があります。)

しかし、言祝ぐのではなく、
内実のある幸せな国になって欲しい。
内実の伴う国家とは何なのでしょうか?

出来れば仙人が住むような
蓬莱山みたいな長閑な仙境が理想です。

(平成30年8月12日追記)
私が中継で見た狂言は木六駄という演目らしいです。
木三駄って最初書きましたが、間違いです。
しれっと訂正。

今後のノート更新の予定

平成30年8月8日作成
(平成30年9月1日 進捗を確認すること)

歴代天皇
元号と同時代の出来事
奈良の政治家
藤原氏系譜
平家系譜
源氏系譜
鎌倉幕府歴代将軍
北条氏執権・得宗家系譜
室町幕府歴代将軍
三管四職
関東公方、関東管領
徳川歴代将軍
明治政府要人
歴代内閣総理大臣

日本史に関してはこのような事柄の
簡単な把握をまとめたいです。
しかし、気づいたのですが、
簡潔明瞭に記述する事は
事柄を熟知していなければ不可能だったりします。
マサチューセッツ植民地の歴史をまとめようと思いましたが、あの辺はアメリカ史の様々な起源が
凝縮されていて手に終えず一旦断念した事があります。

他の州もそうですが、
アメリカの州1つの歴史で本が何冊も出版できるでしょう。

この日本史のように
様々なジャンルをちんみりとずつでも
書いて頭にインプットし、
良著をサクサク読めるようにするのが
目的です。

他分野ではキリスト教、荀子
アメリカ大統領
地理学
英単語
易経
法律
ぐらいをグルグルやる予定です。

多岐亡羊にならないようにしたい。
雑なTODOリスト記事でございます。




男女平等に関するアイディア

最近日本の女性差別の実態が暴露されています。
今の社会は男性のライフサイクル前提の社会システムを
無理矢理女性に当てはめようとするから
弊害が出ていると思います。

男の私が言うのも気が引けるのですが、
女性には月経という生理現象があります。
出産・育児も大切ですが、
女性にとって月経は正に「女子のたていと」であり、
体調の変化も人により千差万別ですし、
同じ人でも人生の時期により生理による体調変化の辛さは変化します。

本当は企業や男性が女性の生理に対してもっと配慮してあげるべきだと思いますが、
女性の方々自身が男性に自分のバイオリズムを教える事はやっぱり恥ずかしかったり、抵抗感もあると思います。

実際、私も女性の生理について
性的好奇心の対象でした。
しかし、好奇心故に調べていくと、
症状の比較的軽い人、重い腹痛、頭痛に悩まされる人と
様々です。

最近は頭痛薬とか生理用品が進歩していると
思いますが、
女性は本来その期間中は安静にすべきではないでしょうか?
(追記)あまり薬に頼りすぎると、本来の自然治癒力が落ちてしまう。「男並みに働けよ」と鞭打つばかりは
どうなのだろう?妊活にも絶対良くない筈です。
少子化問題が深刻になっているのに、女性の生殖能力を
奪う方向での男女平等の実現は、心配になります。

ダイエットやスマホなどの電磁波など
将来お母さんになるべき現代の若い女性達の
環境はあまりよくないと思います。

血の汚れがあるから。。。
と物忌み宿下がりがあった平安時代の方が
女性は楽な面もあるかも知れません。
枕草子や源氏物語などの女房文学は
宿下がり中に書かれた物らしいです。

このように考えますと、
女性のリーダーの役割が自ずと見えてきます。
女子社員の月経周期や出産のバイオリズムサイクルに
合わせたスケジュール管理やキャリア形成のサポートです。

これは男がやると、セクハラにつながる可能性がある。
女性にとっては、自分の性的な弱点を暴露する事にもなるので、大変抵抗があると思います。

(追記)
性的な弱点とは、生理周期で妊娠のしやすい日など類推されうるという事です。
女性にとっては異性にも、同性にも本能的に知られたくない筈です。
そこで、カムフラージュは働く女性自身がする方が
よりプレッシャーがかからないかも知れません。
(追記以上)

女性には男性並みの給料を保証しつつ、
休暇を多目にとってもらう。
半分仕事で半分休みのような休暇と
体調が苦しい時の本当の生理休暇です。
これをうまく織り混ぜてカムフラージュするシフトを組み、男性とは違ったクリエイティブな仕事をしてもらう。

遊び半分(仕事を離れたという意味で)のマーケティングとか趣味に打ち込むなどです。
ここで給料は男性並みにする。
暇と自由なおカネのある女性には経済効果も見込めます。

(追記)
法人税率を旧に復する方法で実現して欲しい。
女性の給与水準を下げずに
女性の仕事やキャリアアップ、人生における自己実現と月経、結婚、出産、育児といった
女性の人生のサイクルに合わせた働き方の両立を
図る施策を行う企業の法人税を大幅に控除すべきです。

また、育児放棄の問題もありますが、
核家族化や個人志向が強まるご時世
昔のように姑や実母、姉妹や従姉妹、ご近所さんなど
育児の相談やヘルプを頼む相手が少なすぎます。

非ITのリアルな子育てサポート企業など設立し、
しかも、Webで委託するのでなく、人となりがわかった
正職員が孤独なママのリアル○○知恵袋になってあげるのです。

法人税を減税しても内部留保を溜め込むだけ、
従業員の人件費や福利厚生費として経費で落とさせた方が働き方改革につながるのではないでしょうか?
(追記以上)


女性に居心地の良い会社は、結婚・出産・育児を
経ても復職率が高いでしょうし、
一旦会社を離れて客観的に会社を評価してもらったり
出産育児を応援する商品開発などでは貴重なご意見番になります。

恐らく女性と男性の給与格差をなくし、
女性が自由に生きられる社会になると
男性のあるべきライフスタイルも自ずと定まると
思います。

また、女性のスケジュールやキャリア形成は
女性の管理職が管理する。
男子禁制のブラックボックス人事管理を行えば
女性管理職は必然的に増えます。

性差による持ち味を活かす方が
真の男女平等社会だと思います。
女性は無理して男性並みに働く必要もないし、
男性は逆立ちしても子供を生むことはできないのですから。

私の平等観は万事このような感じです。
お百姓はお百姓として
漁師は漁師として
会社員は会社員として
公務員は公務員として
生きやすい世の中を作る。

(追記)
天地自然の道理に叶う施策を行えば
自ずと調和のある社会になると思います。
天地自然の道理といっても
古法に道理がない場合もあります。
学問の発展や時代の変化に合わせた制度改革が
道理に叶う。

どうも従来のフェミニズムは
道理よりイデオロギーに重きを置いている気がする。
(追記以上)

不快な思いをした女性の方もいるかも知れませんが
女性にとって「人生のたていと」である
月経という生理現象について
社会的に議論が活発になっても良いのではないかと
私は考えます。


(追記は平成30年8月10日)



御譲位と改元の新慣例を制定してはどうだろう?

日本では改元は新天皇の即位の直後行われて来ました。が、一世一元の制の元祖である明国では、
越年改元という方式が多く採用されていたようです。
即ち、新皇帝即位の年の翌年から新しい元号を用いるのです。

具体的には御譲位後平成31年5月1日に新元号を発表しますが、
新元号の使用は31年の翌年からとし、正月元旦から新元号の元年とする。

この方式は日本では前例がありませんが、
改元の影響を様々な分野で受ける現代社会では
社会的な混乱を最小限にしつつ、
オリジナルな暦制度のよりよい運用を図るために
柔軟に対応するのが必要ではないでしょうか?

越年改元だけでなく、
旧元号○年と新元号元年が併存する年をなくし、
即位翌年を新天皇元年、新元号元年とすれば、
現代に住む私たち国民も
後世の日本国民も、また、諸外国の人々も
分かりやすいのではないでしょうか?

新元号に対する官公庁や金融機関、企業の対応も
即位と同時に来年の元号が分かり、
翌年元旦から丸一年元年にすれば、
ITシステムのプログラム変更の負担も軽減されるのではないでしょうか?

私が提案した所でなんの説得力もないでしょうが。。。
本当は皇紀という時間軸を私は推奨したいのです。

西暦のADはアンノドミニ(主イエス・キリストの年に)という意味であり、キリストの生年を基準にしたものです。紀元前をBCと書くのはBeforeChristの略です。

皇紀は今年は2678年になります。
神武天皇の実在と約2700年の歴史があるのか
疑念に感じる人も多いでしょう。

しかし、イエス・キリストの生年が本当にAD1年か
わかっていないし、12月25日に生まれたかさえ
さだかではない。
クリスマスは冬至を祝う祭の名残という説もある。

こう考えれば、神武天皇即位紀元の皇紀の真偽に
目くじらを立てる事もないと私は思います。

まあ、しかしそれでも記録の裏付けのとれぬ
神武紀元に抵抗があるなら、
元号を使用した西暦645年、大化元年を新皇紀元年とし
新皇紀1400年にあたる西暦2045から日本の公式カレンダーとして採用普及に努めてはどうでしょうか?

私は日本的新憲法を定めるべきと考えていますが、
暫定的改憲と20年かけての創憲プロジェクトを立ち上げて西暦2040年か西暦2045年まで政・官・財・産・学の世界でそれぞれ熟議を重ねてもらって新生日本の国家のあり方を形にしてほしいと考えたりします。


租税 商行為 通貨の本質を考えたい

租税を考える事は世界を救う鍵です。

王様はなぜ誕生したのか?
農耕社会では特に強い王権が誕生しますが、
その他の人がリーダーの誕生を容認したのは
リーダーの存在が
コミュニティ全体の利益に貢献していると考えたからです。

多くの文明では神権政治が行われましたが、
神の意思を正しく把握する奥義は
天文観測による農事暦の管理だったと思います。
統計的に天文観測のデータと
豊作凶作の統計、人事の善悪の記録は
あまり精査されずに因果関係を見出だされ
占術として確立しました。

今、世界は混迷していますが、
万人が万人の王たる民主主義社会になったからだと思います。

国民一人一人が国家の王たる主権者なのですが、
私も含めて自覚がないのです。

それを端的に示しているのが租税に対する
意識の低さです。
サンジャポでダレノガレ明美さんが
「最近驚いた出費は税金」と発言していました。

私は納税の実績があまりありません。
ですから高額所得者の人々の心理は
わからないのですが、
仮に私が高額所得者であったとして
自ら得た報酬を税金でごっそり持っていかれたら
口を尖らせて文句を言うだろうと思います。

だから、ダレノガレさんの発言を聞いて
複雑な思いになります。
「人類はこのままじゃいかん」
ギリシアの民主制は
ティモクラシーから
デモクラシーに移行したと塩野七生さんの本で
読んだことがあります。

高額所得者に対しては
巨額の納税義務を課すのであれば
ティモクラシー的なインセンティブを
法的に承認しないと
タックスヘイブンやオフショア市場への
節税、脱税行為は後を立たないと思います。

さらにティモクラシーの弊害もあります。
高額所得者のインセンティブは
名誉、権威、文化的なもので
権力とは切り離したものでないと行けません。

租税は王の名の元に
集められたものであれ、
政府の名の元に集められたものであれ、
公共インフラを保全し、
富の再分配を行って、
公平な政治、人間の尊厳を保つ為に
使われるべきものです。

しかし、政府や王が我田引水を行えば
たちどころにその機能は失われます。
納税額によって政治への発言権が増すティモクラシーでは癒着腐敗が横行するのは目に見えています。

そういう点から私は「人工的な貴族制度」
(人工的とは特別な権利義務が明確化していて
法的な縛りがよく効いているという意味です)
に可能性を見いだせるのではと考えていますが、
少数派の意見でしょう。

養老令を調べましたが、
商行為に関するものは
関市令(げんしりょう)の20条だけのようです。
商人は古代から存在し、
ノウハウの蓄積(ユダヤ人、ギリシア人、フェニキア人、ソグド人など)はあった筈ですが、
統制すべき国家の法整備の貧弱なことに驚きます。

古代において商行為が社会全体に与える影響が
あまり大きくなかったか、重要視されていなかったのでしょう。
しかし、現代においては商業・交易の社会に与える影響力の絶大なことを否定する事は不可能です。

商業・交易の法的な整備が
急がれるのではないでしょうか?
規制緩和ではなく、
よく練り上げられた法整備が必要だと思います。
しかし、一国、一業種の都合では
よく練り上げられた商法・貿易法とは言えません。

シリアやパレスチナの難民の人々や
アフリカ、南米のプランテーションで
バナナやコーヒーを作っている人々の意見や主張が
反映される仕組みを構築する事が前提です。

また、通貨の本質についても
私は考えたいですが、
その前にマクロ経済学が立ちはだかります。
マクロ経済学はなかなか理解が難しいです。

しかし、平氏政権時の宋銭の普及と天災による
実体経済の大打撃による社会不安の発生は分かりやすかった。

歴史には様々な学問の具体的事例が多くあります。
私はそのような視点が足らなかったと痛感しています。

今後も延々、ノートのような記事が続くと思いますが、
経済格差や社会矛盾が大きくなる事が
戦争や外交軋轢の真因ではないでしょうか?

租税、商行為、通貨の本質に
迫っていけたらと私自身思います。

歴史
経世の学(経営・経済・政治・法律・会計・心理学)
修辞学
語学
教養(科学・人文学・統計としての占術)

これらの修養に今後は励みたいです。


(追記 平成30年8月7日)
関市令の条数は12ではなく20でした。
訂正致します。

歴史は進歩するものか?

駅鈴というものがある。
律令時代に勅使や官人が全国の官道を往来する際に
騎乗の馬に公用であることを示すために
ぶら下げた鈴なのだそうだ。

駅鈴の音色はどんな音がしたのだろう。
銅鐸などの音色と共に聞いてみたい
古代の音である。

五畿七道が整備されたのは有名だが、
東海道、東山道などの官道に
駅家(うまや)という施設が建設されていたのは
知らなかった。

駅家は官道に16キロメートル間隔で設置された。
特に山陽道の駅家は瓦葺きで立派なものが
建てられた。
シナ大陸や朝鮮半島からの外交使節の
目も意識したのだろう。

駅家には地域の有力者から駅長が選ばれ、
その地の行政を担っていたともいわれる。
駅子と呼ばれる人がいて、
公用官人の次の駅までの道案内や
駅馬の返却を担当したそうだ。

1000年以上も前に
そのような交通インフラが存在した事に驚いた。
道幅も10メートルあり、真っ直ぐな道だったが、
律令制の崩壊と共に官道は衰退した。

道路の質に関しては
明らかに古代より中世の方が劣化している。
これだけで、古代は中世より優れていたと思わないが
指標によっては古代人の方が現代人より
優れていたり、幸福だったことも多くありそうだ。

人類の歴史は一直線に進歩するとは限らない。
退行する指標も数多くあるのだ。
古いものが全て素晴らしいものでもないし
新しいものが全て悪いものでもない。
逆もまたそうである。

人間の価値観とは相対的なものだ。
しかし、相対性の不安の中に
何か安心立命の境地のようなものを
私たちは一人一人、それぞれの人生の中で
見出ださなければならないのではないか?

宗教とか信仰には
本来はそんな役割があると思う。
しかし、神の御利益を競い合い
悟りの境地まで競い合うのだから
人間は始末に終えない。

駅長驚くことなかれ
一栄一落、これ春秋

菅原道真が太宰府に左遷された時に
旧知の明石の駅長に送った漢詩だという。

一栄一落。
歴史とは所詮そんなものかも知れない。




荀子 勧学篇の言葉より

荀子の勧学篇の言葉です。

きざ(金へんに契)んで之を舎(お)けば朽木も折れず、
きざ(金へんに契)んで舎(お)かざれば金石も鏤(ちりば)む可し。

意味は刃物で何かを切ろうとして、途中で切ることを止めてしまえば、腐った木さえ切れない。
しかし、刻むことを続けていれば、硬い金石を彫ることも出来るのだ。

ハッとさせられる言葉です。
記事にしたいことがあまりまとまっていないので
この言葉の紹介で今日はご勘弁ください。

ちなみに私のように今得た知識を得意気に
人に開陳することを
道聴塗説と言います。
また、耳から入り、すぐに口から出ていく事を
口耳の学と言うそうです。

荀子という方は、誤解されているかも知れないと
勧学篇を視写していて思います。
韓非子や李斯の師匠とは思えない生真面目さを感じます。

性悪説は
実践的な学問、経世済民の理想をいかにして
具現化するか熟慮した上での主張なのだと感じます。

荀子について詳しく解説しておられる方のサイトを読みました。

「新読荀子」というサイトで
河南殷人さんという方が荀子全篇を
口語訳されています。
大変分かりやすく内容が充実しておりますので
興味のある方は是非ご覧下さい。

私は読むにも漢文の知識が乏しいので一苦労です。
そこで全篇書写する事にしました。

やりきらないと朽木も折れず
口耳の学徒に留まってしまう。
しかし、いつになったら苦痛を感じず
難しい本が読めるようになるんでしょうね?

今書いているのはノートです。

学思篇にしては
学びも思いも深まっておらず
ただただ事典の受け売りです。
また、逍遙篇も
仕事もしてないし、結婚もしていないので
深い人間の洞察など書けません。

だからほとんど学習ノート、
絵で言えば習作です。
しかし、時事問題について
私の足りない頭であれこれ考えるより
少しでも学んだ方が良いと思うようになりました。

私は今の政権に批判的ですが、
決して一票を投じなければよいわけで
次世代のオルタナティブになるべく
研鑽を積む方が建設的なように
思うようになりました。

そうすれば、オルタナティブに成り得なくても
生き残る事が出来るでしょう。

私は健全な保守とは
趣・情緒に価値を見出だす事にあると考えます。
経済的な合理性だけで物事の全てを決めるのではなく
一人一人の人間の尊厳や感情に
配慮するのが本物の保守です。

その為には伝統的なものも
時代に合わせて変えていく必要がある。
そして変えてはならないものを問い続ける。

後漢の儒学者の鄭玄(じょうげん)は易経から
森羅万象を貫く3つの原則を見いだしました。

易簡(物事の変化の法則は単純なものである)
変易(物事には絶え間なく変化するものがある)
不易(物事には全く変化しないものもある)

これら3つについて考察を深めていきたいと思っています。

日本が移民を受け入れるならば、国民の義務規定を変えなければならないと思う

現在、憲法では
納税、勤労、教育を受けさせる義務がきていされていますが、私はこれに
国防の義務。
国家への忠誠(憲法を遵守する義務といってもよい)。
も加えるべきだと思います。

なぜならば、日本人のみの単一的文化を営んできた時代は殊更日本人とは何か?
法的規定をする必要がなかったのに対して、
新に移民を受け入れるとなれば、ニューカマーに対して日本人を相対的に規定する必要があるからです。

レイシズムに見えますが、
帰化要項をきちんと整備しないと
日本は移民によって社会が変質してしまいます。
日本人にも悪党と善人がいるように
諸外国の人々も悪党と善人がいます。

だから、私は在日朝鮮人・韓国人の人々をモデルケースたとして在日外国人基本法を制定すべきだと思います。
そして在日アメリカ人特別法、在日イギリス人特別法と
国別に特別法を設けて国際情勢に合わせて条文を追加・削除出来るようにするのです。

在日外国人という存在を法的に明確化しようとすると
日本人も同様に法的に明確化しなければなりません。
帰化する事で日本人の有する全ての権利を獲得出来るようにするわけですが、
ある特定の意図、スパイ行為や犯罪行為を目的に
日本に帰化しようとするケースが考えられます。

これに対して現憲法では対応できないと思います。

憲法への忠誠と国防の義務を
増やし、
外国人が帰化する際に宣誓してもらう必要があると思います。

移民国家アメリカは国民の義務規定は内容ですが
市民権を得る際に宣誓するようです。

アベ三選は自由民主党の「終わりの始まり」

アベ総理は問題山積の国会を乗り切り、
総裁選で三選を果たすべく、
国政には目もくれず、党内政治に勤しんでいます。

7月5日
赤坂自民亭という懇親会に初出席
7月6日
首相動静に乗らない公邸での派閥無所属議員との極秘集会。

カジノを含む総合型リゾート推進法案や
党利党略の参議院議席6増決定
裁量労働制を小さく生んで大きく育てる働かせ方改革。。。

西日本豪雨災害で甚大な被害が出ているにも関わらず
復旧復興の為の補正予算を組む事もなく、
自己都合で通したいものは通し、
臭いものには蓋。
そして、総裁選は三選は確実です。

アベシにとっては「我が世の春」です。
昨年「安倍内閣は年内に終わるや否や」を
易占で占いましたが
豊が遯に之く卦を得ました。

雷火豊は絶頂の極みです。
天山遯は逃げるという意味があります。
アベシは見事に昨年中は逃げおおせた訳ですが、
果たして今年はどうでしょうか?

モリカケ疑惑に対するアベシの対応は
アベシの政治家としての資質はおろか
人格・品格さえ疑わせるようなものでした。
あくまで私自身の印象ですが
アベシが擬態を使えるような志の高い人物だとは
思えなくなりました。

モリカケ疑惑が巷間を騒がすようになってから、
自民党の雰囲気は変わりました。
批判に対して物凄くセンシティブになっています。

徹底したブーメラン演出作戦。
政権批判者の「政権批判の内容」に類した行為を
批判者自身がかつてやっていたことを掘り返して
「どっちもどっち」と世間に思わせる世論工作。
石破茂氏などの冷遇・批判・誹謗中傷
不都合な真実は徹底的に隠蔽。
さらには改竄(「改竄」も「書き換え」と強弁する)

私にはアベシやアベジミントウの一強政治は
嘘、嘘、嘘で塗りかためた砂上の楼閣にしか見えません。

だから、三選後にアベシは自らの嘘に苦しむ事になるでしょう。
しかし、私はアベシの人柄すら信用できなくなりました。

まともな責任感のある大人なら、嘘にも苦しむでしょうが、三選後も嘘に苦しむどころか嘘に嘘を重ねて
任期を大過なく過ごされる可能性が高い。

すると、貧乏くじを引かされるのは
アベシに重用された人々です。
旧悪が暴露され辱しめられるでしょう。
今回アベシは恩賞の約束をしているようですが

盗人から財貨を恵んでもらうようなものです。
正当な財物なら開運招福にもつながるでしょうが、
盗品を有り難がって貰っていたら
大なり小なり災いはいずれその人にも及びます。

しかし、最近のジミントウの人々は目の前しか見られないので、恐らく盗人の財貨を有り難く山分けするのでしょう。

するとそれはジミントウの「終わりの始まり」になります。
アベシは今後も嘘をつきまくる。
共犯関係がズブズブになった政府与党は
彼の嘘に振り回され、政策はますます支離滅裂なものになるでしょう。

そんな政府与党を国民は信頼しないし、
仮に信頼するような国民なら日本国事態の
「終わりの始まり」になってしまいます。




太政官(だいじょうかん)の四等官 他

太政官(だいじょうかん)は日本の律令制度における
国家の最高機関である。
明治維新の太政官は(だじょうかん)とつまって読むようだ。

天武朝に納言、大弁官の職名が見える。
飛鳥清御原令では納言は大納言、中納言、少納言に分割され、大弁官は左右、大中小の6つに分割された。
大宝令で太政官は八省を統轄すると定められる。

具体的には
事務部門の左弁官局と右弁官局がそれぞれ四省を
統轄した。

左弁官局には
中務省
式部省
治部省
民部省
右弁官局には
兵部省
刑部省
大蔵省
宮内省
が属した

他に事務部門として少納言局がある。


太政官は唐名で尚書省と呼ばれたが、
少納言局は門下省的な性格を有している。
巡察使と呼ばれ地方官を監察する臨時監察官も
太政官に属した。


これら事務部門の上に大臣・大納言・中納言・参議からなる合議体である議政官(学術用語)がある。

四等官である
長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)
は太政官では以下のように割り当てられる。

○長官(かみ)
太政大臣
「則闕の官」(則闕(そっけつ)すなわち欠くの意)と言い適任者がいなければ空位である。

左大臣
事実上の最高責任者

右大臣
左大臣の補佐

内大臣
令外の官で内臣(うちつおみ)の官職の後進であるとされるが、職掌は不定で任じられる人により違ったようだ。

○次官(すけ)
大納言

中納言
大宝令では一時廃止。4年後令外の官として復活。

参議
令外の官

以上の官職の者が朝政に参画できた。

○判官(じょう)
左大弁 左中弁 左少弁
左弁官局を司る。

右大弁 右中弁 右少弁
右弁官局を司る。

少納言
少納言局を司る。

主典(さかん)
左大史 左少史
左弁官局に属し事務を行う。
右大史 右少史
右弁官局に属し事務を行う。
大外記 少外記
少納言局に属し事務を行う。

※天皇の命令、すなわち詔勅について調べたところ
わからない事が多かったので太政官を調べました。
太政官という官庁が律令制下にあったとは
恥ずかしながら知りませんでした。

天皇御璽を内印、太政官印を外印と称したり
天皇と皇族の財産などprivateなものには
内の字を頭につけ、
官庁や国の財産などpublicなものには
外の字や大の字を頭につけて使っているようです。

前者は内匠、内蔵、内舎人、内膳、内記などです。
後者は外記、大膳、大舎人などでしょうか。



古文書の種類 未了

(分類はWikipedia 古文書項参照した)


◎公式様文書(くしきようもんじょ)

養老令の公式令に定められた書式によって
作成発給された文書。
楷書(隋唐代の公文書書体、秦漢代は隷書を用いた)
官司の印判(太政官印)および官人自らの位署があることが特徴。

21(飛駅式を上式、下式に分ければ22)の書式がある。


詔書
天皇の命令。中務省から発給される。
一番手続きが難しい。
臨時の大事に発せられる。
国全体、官僚全体に対する命令は詔。


勅旨・勅書
天皇の命令。中務省から発給される。
通常の小事に用いられるとされる。
特定の人、事に対する命令。




上位の役所から下位の役所に発給される。


ほぼ同格の役所間のやりとり


上下関係がはっきりしない役所間の文書
検非違使庁など令外の官が発給する文書様式

解(げ)
下位の役所から上位の役所へ向けて出される文書。


◎公家様文書

宣旨
簡略化した勅命文書。勅書の草案が公文書化した。
中務省に上げる前段階で公式発給された文書。

官宣旨
弁官が署名して発給される勅命文書。
宣旨より簡略化している。

庁宣
在京の国司が任国に対して発給する文書
※律令初期は国司に任ぜられると、その者は任地に赴いたが、平安中期あたりから国司本人は京都にいて代理人(目代)を派遣する国司の遙任が一般化した。

綸旨
弁官や蔵人が天皇の意思を受けて出す文書。

院宣
院(上皇)の意を受けて近臣が発給する文書。

令旨
親王、内親王、女院の意を受けて近臣が発給する命令書。
※以仁王の令旨が有名だが以仁王本人は親王ではないので厳密には令旨という言葉を用いるのは不適切だが、
全国の源氏の決起を促すために多少箔をつける意図があったかも知れない。

御教書
位階が三位以上の人の意を受けて近臣が発給する
命令書。

綸旨、院宣、令旨、御教書のように
命令者の側近が発給する形式の命令書を
奉書という。

命令者が直に署判・署名を行ったものは
直札(じきさつ)、直状(じきじょう)、直書(じきしょ)
などと呼ばれる。
公家社会では直札が公文書として用いられるのは稀であったが、逆に武家社会では公文書の直札化が進んだ。

綸の字

綸(漢1104)
印章をつなぐ為の青い絹糸で組んだ
佩(お)びひも。

綸言
天子の言葉
天子の言葉は発せられた時は糸のごとく細いが
天下に達して行われるときは綸のように太くなるから

綸言汗の如し(漢書)
天子の言葉の言葉は一旦発せられたら
汗の如くその身に戻らない。
天子の言葉は取り消しがきかない。

綸巾
青い絹糸の組ひもで作った頭巾。
諸葛亮孔明が軍中で用いたので諸葛巾とも。
隠者や風流人が用いた。
(晋書謝万伝)

※謝万を少しく調べると謝安の弟。
謝安は桓温の簒奪を防ぎ、
ヒ水(ヒはさんずいに肥)の戦いで
前秦の符建に勝利し、(兵を率いたのは謝玄)
東晋王朝の存続に貢献した政治家。

謝安の字は安石で、
北宋の政治家、王安石の名はそれにあやかったか?

三省六部

三省六部(世64)(Wikipedia)
中書省
長官は中書令
皇帝の詔勅を起草する(曹魏~)

門下省
長官は門下侍中
天子の詔勅と臣下の上奏を審議する。
詔勅を差し戻す(封駁)権限があったので
権門貴族の牙城となった。

尚書省
長官は 右僕射・左僕射
(元々は尚書令だが唐代は任命されなかった)
政務の執行機関として六部を管轄。

吏部 文官の任免を統括
戸部 戸籍、財政、産業分野を所掌する
礼部 典礼、祭祀、文教、外交を担当
兵部 軍事、兵籍を管轄する
刑部 司法、刑獄、訴訟などを担当する
工部 土木、建設、製造を所掌する

御史台 官吏の監察機関

詔勅律令格式

詔(日34)(漢1305)(Wikipedia)
天子の命令。
秦の始皇帝が初めて用いたといわれる。
字義は訓戒、教え、諭す等。
日本の律令では詔は
臨時の大事を命ずる際に詔書が発せられると
定義されている。

勅(日34)(漢185)(Wikipedia)
天子の命令。
詔は臨時の大事の命であるのに対し、
勅は通常の小事の命に発せられるものとされた。
しかし、詔・勅の区別は甚だ曖昧である。
字義は勅もまた、教え諭すとの意味がある。
勅が天子の命をあらわすようになったのは
シナの南北朝時代以降の事であるそうだ。

詔書・勅書は漢文で記された。
これに対して和文で記された天皇の命令書は
宣命(せんみょう)という。
これは宣命体という書式で書かれるが、
漢語に送り仮名として万葉仮名の漢字を小さく書いたもので神職さんが奏上する祝詞は宣命体で書かれているそうだ。

詔勅・宣命ともに手続きが煩些であったので
嵯峨天皇の御世である弘仁年間に蔵人所(天皇の秘書官)が設置されると本来、詔勅・宣命の草案メモであったものが様式化して宣旨になり、さらに簡略化して
綸旨(りんじ)が成立した。

「綸言(天子の言葉)の旨」という意味である。
綸旨は蔵人が「綸言如此」と書き添えて直接発給する
文書だったので偽造が簡単だった。
建武の新政を揶揄した二条河原落書にも偽綸旨が出てくる。


律(日34)(漢496)(Wikipedia)
字義を調べたが、古代の音律の1つであるようだ。
(呂も同じで雅楽などで使われる
「ろれつがまわらない」の「ろれつ」は「呂律」が訛ったもの。)
法が法令制度全体をさして広く使われるのに対し、律は狭く条文や規則をさす。

律とは刑法の事をさす。

令(日34)(漢70)(Wikipedia)
字義は上部「集め合わせる」+下部「割り符」
「リョウ」と読む。
(漢字の音読みは伝来時期により、漢音、呉音、唐音などがあり、非情に煩わしい。後日調べたい)

令は行政法、民放にあたる。

格(日53)(Wikipedia)
「キャク」とよむ。
字義は法令の意とは遠かったので割愛。
日本の律令制での位置付けは、
①律令条文の補足・改正
②官吏の公務及びその取扱規則
詔勅や太政官符などの形で出された。

唐の格は官吏の事務規則である。

式(日53)(Wikipedia)
日本では律・令・格の施行細則。
唐では役所の文書規則。


律令は西晋の時代から整備され、
隋唐代に格式が加わった。
この法体系は東アジアの
日本、朝鮮半島諸国、渤海、大越(ヴェトナム)などに
伝わった。

平忠度の歌

さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな

平忠度

さざなみは志賀の枕詞
志賀の都は天智天皇の時に作られた
近江大津宮の事で
壬申の乱の時に大友皇子が敗れたため
焼亡して荒廃しました。

しかしながら国破れて山河あり
長良山に咲く山桜は
往時と変わらず美しく咲いている。

むかし「ながら」は長良山とかけている。
長良山は三井寺の後ろにある山だそうで、
(地図で見ると恐らく三井寺の南側)

世の中をいとひがてらに来しかども
憂き身ながらの山にぞありける

という歌もあります。
口語訳が見つからなかったので我流で訳せば

世の中が嫌になり都から三井寺に参詣に来て、
そのまま出家して山に籠ろうかとも思ったけれど
そんな我が身でも長良の山は寂しく心細く感じられる。
やっぱり俗世が恋しいなあ。。。

と、そんな感じだと私は思います。

平忠度は平家の公達でしたが、
源義仲に攻められて都落ちする事になります。
その時にわざわざ引き返して
歌の師である藤原俊成(藤原定家の父)の家に立ち寄り
勅撰和歌集を編纂する勅があったら
この中から一首でも取り上げて頂けたら幸いと
鎧の中から自らの歌を綴った一巻を取り出して
俊成に託した逸話が平家物語にあります。

その逸話や大友皇子の無念を思えば
胸に迫るものがあります。

日本で歴史書で明らかになっている
最初の権力者は藤原氏の摂関政治だと
思っていましたが、
天武朝の皇親政治も興味深く、
また、藤原四家の系図をまとめるにしても

律令政治の確立や
文武・聖武天皇外戚 藤原氏 対 天武天皇皇親勢力
神亀6年(729年) 長屋王の変
天平9年(737年) 天然痘大流行(藤原四兄弟病死)
橘諸兄の台頭~橘奈良麻呂の乱
藤原仲麻呂の台頭~恵美押勝の乱
道鏡の台頭と称徳天皇の死
のあたりまでまとめないと
私自身が頭に入りません。

ことのほか遠回りですが、
やりきらないと無意味だし、
やりきればそれなりの成果があり
自信がつくと思います。

平賀源内、松尾伴内さんなどの
源内、伴内の名前は
源氏の内舎人(うどねり)
大伴氏の内舎人の意味である。
(他に平内、喜内など)

あるいは金吾(執金吾)は衛門府の唐風呼称で
小早川秀秋が金吾中納言と呼ばれたのは
権中納言兼左衛門督に任じられたからである。

などなど、目から鱗の事が多いです。

終日物思いに耽るより、
寸暇を惜しんで学問する方が良いと
荀子は言っていますが本当ですね。


山岳戦の重要性とアイディア

日本は山がちですから、
山岳戦に備えることは有意義だと思います。
また、シナ大陸の肝は四川、山西、陝西あたりです。
この地域で活躍できる部隊を育成すべきだと思います。

イージスアショアを配備するより、
山岳戦に強い部隊を中長期的に育成する方が良いと思います。

日本には修験道があり、
修験者は大和・紀伊などを拠点にして
全国の豪族の諜報活動を請け負いました。
彼らには街道とは別の山のネットワークがあったはずです。

また伊賀・甲賀の忍者衆は杣人でもありました。
普段の樵仕事で超人的な身体能力を鍛えていたのです。

今、里山は荒れるに任せています。
外来の害獣による畑の被害も多い。
それに林業も衰退したり、
あるいは杉などにかわり保水力の高い
広葉樹の植樹などが急務になるでしょう。

そこで、自衛隊に山岳戦部隊を作り
平時は林業と狩猟を訓練がてらしてもらうのです。
もしかしたら、平地でも精強さを発揮できるかも知れません。

退官してもそのまま林業や猟師を続けてもらう。

世界を見ても地域の境目は高い山が
多いです。
アフガンとかチベットなどです。
日本にはそこまでの高山はありませんが
訓練の工夫をして対応できるようになれば
災害派遣、治安維持活動に引っ張りだこになるでしょう。

マティス国防長官の言葉より

「礼儀正しく、プロであれ。だが、会う人は誰でも殺す計画を立てておけ」

国防軍事、外交折衝の関係者は
このくらいの覚悟が必要でしょう。
攻めてこないだろうと高をくくるのではなく、
自らは規を越えないが、いつも不意打ちへの備えをしておく。

「シナ大陸への攻め方」という記事が検索上位にきますが、中華人民共和国との海洋利権を争うときに、
守るだけでは対策に限界があります。
また、戦いとは外交から諜報、経済まで様々なジャンルの戦いがあります。

日本ではフェアプレー前提で何事も考えますが、
ラフプレーが横行する世界なのです。

ところが、私はラフプレーを行う輩は大損していると
思います。
反則行為や汚い行いにより敗れた者の恨み反感に
半永久的に苦しまねばならないからです。

兵法も正攻法でなければなりません。
正攻法の究極は「不戦屈敵」
しかも、争わず合意形成すればなおよしです。

日本人がそうは思わなくても
諸国民の中で「孫子」の読者は少なからずいるわけです。日本人の意識が変わらなければグローバル競争にも
勝てません。

もともと日本はもののふの国。
武士道の国です。
弱きを助け、強きにおもねらず
正道を歩む。

武士道には禅宗から仏教的な理念も取り込んでいます。
江戸末期には名門の武士は多くは堕落しましたが、
講談や歌舞伎などで武士の理想像は
庶民レベルで広まっていて
庶民から武士になった人々が
明治の近代化を支えました。

リアリズムとフェアプレーの伝統が
日本にはあるのです。
それを絶やしてはなりません。

スピノザの神の時空

眼鏡屋の角も愛しもスピノザの神の時空に在るを思わば

【推論】なぜ「やまと」に「大和(だいわ)」をあてたのか

「大和」と書いて「やまと」と読ませるように
なったのは元明天皇の御世のことだそうです。

国名を好字の2文字で表すように定められたので、
これまでは「大倭」と書いて「やまと」と読んでいたものを倭を和に変えたことから「大和」という言葉が生まれた。

私はそれに加えて陰陽道、道教的な世界観の影響があると思います。
道教的な価値観と共に受容された「易経」の影響や
五行説の影響が古代の日本に随所に感じられるからです。

易経には64卦ありますが、乾卦は第一番目の卦にあたり
第二番目の坤卦と共に特別な卦になっています。
(乾は天を象徴し、坤は地を象徴する)

この乾卦の彖伝に
大哉乾元、万物資始。乃統天。雲行雨施、品物流形。
大明終始、六位時成。時乗六竜、以御天。
乾道変化、各正性命、保合大和、乃利貞。
首出庶物、万国咸寧。

口語訳
偉大なる乾の創造力、その力を受けて万物が始まる。

乾は天道を統御する根元である。雲は大空に流れ、雨は大地を潤す。この天の力を受けて、万物は様々な形を表して天地の間をうめつくすのだ。

乾の力は、何者にも妨げられずゆきわたり伸びゆく。

乾卦は、潜伏から飛躍に至る万物の全過程を明らかにする。六爻によってそれぞれの時点を示し、その時に応じて六頭の竜に乗り、天道をわがものとしていくのである。

乾の道は時に応じて変化して万物の天性を開花させ、天地の間の大いなる調和を保つ。

乾の動きは順調にして永遠である。

私はこの彖伝の一節が「大和」の国号の由来ではないかと思います。乾=天の道の力が雲を起こし雨を降らせ万物の天性を開花させる。天の力が大いなる調和を保つ。
天は君主の象徴であり(地の臣下の象徴に対応する)、
その天の力が大和をもたらし、永久不変である。

それを願う意味で「やまと」に「大和」の二字をあてたのではないか?

天地開闢の時に一番最初に表れた神々
国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊
は「乾道独化(乾道独り化す)」と記されています。

乾道、純男という語に陰陽思想の影響を感じます。

また聖徳太子の冠位十二階も五行相生説に因む配列だと感じます。

大徳 紫
小徳 薄紫
大仁 青
小仁 薄青
大礼 赤
小礼 薄赤
大信 黄
小信 薄黄
大義 白
小義 薄白
大智 黒
小智 薄黒

これが十二階で儒教の五常とその上にある徳の6つを
大小に分けて12の冠位にしているのですが、
徳に続く、五常の配列が
一般的な仁義礼智信ではなく、
仁礼信義智になっています。

四柱推命を知っている方なら、
五行相生の順番だとピンとくるのではないでしょうか?
仁は木で青
礼は火で赤
信は土で黄
義は金で白
智は水で黒
です。

(季節を五行に当てはめると青春、朱夏、白秋、玄冬
季節の間は土用を挟みます。)

古代日本人は早くから道家の思想を取り込んでいたと
思います。
それは、現代人の感覚としては先端科学のようなものかもしれません。
唐心を排するのは私はらっきょうや玉ねぎの皮を剥くようなものだと思うので好きではありません。
むしろ、よく消化し、分析分類して収まるところに収める方がよいと思います。

私が願うところは、
乾卦の彖伝の中にある
保合大和、万国咸寧の二節です。

大和を保合することを通して
万国(世界中全ての国々)をことごとく安寧にする。

大和とは日本一国の事でもあるし、
所属する共同体の調和でもあるし、
世界全体の大いなる調和でもある。

その為に乾乾兀兀と努力していきたいと思います。


(平成30年7月22日追記)
天武天皇について調べましたら、
天皇ご自身が天文・遁甲に通じていたと書記に記されています。和風諡号にも天渟中原瀛真人(アメノヌナハラオキノマヒト)とありますが、東海三神山の瀛州と道教の神仙の称号である真人が使われています。

道教に関心を示し、神道を整備し、仏教を保護し
(Wikipedia)
「天皇」の称号と「日本」の国号を初めて使用した。
また、日本の土着の伝統文化の保全・整備に努めたことが知られていて日本の原型を作った偉大な天皇の一人であると言えそうです。

統治政策はカリスマ的で強権的な面もあり、
全面的に美化は出来ませんが、
多彩な才覚で本当に日本の礎を築いた。

そして、易経を理念の原点とする陰陽道に自ら通暁し、
朝廷に陰陽寮を初めて設置した。

大和が乾卦彖伝からとったかは、
私の勝手な推論ですが、
古代日本に道教の強い影響があった事は間違いないようです。


藤原氏の水源 未了

藤原氏は藤原鎌足を祖とする神別氏族。

※神別とは新撰姓氏録(嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族の名鑑で弘仁6年(815年)に成立した)の中の
氏族の分類であり、他に皇別(歴代天皇から分かれた氏族)諸蕃(渡来人の子孫)の2種がある。
神別(天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)の子孫)は、
更に天孫(ニニギノミコトから分かれた子孫)、天神(ニニギノミコトに付き従った神々の子孫)、地祇(天孫降臨より以前に土着していた神々の子孫)に分けられる。

祖先神は天児屋命(アメノコヤネノミコト)
春日権現、春日大明神とも称する。

祖とされる藤原鎌足は
中臣氏の出自と伝えられ、
初名は中臣鎌子。
後に鎌足と改めた。

中臣氏は忌部氏と並び宮中祭祀を司ってきた。
忌部氏は早くに中央での勢力を失ったが、
中臣氏嫡流は大中臣連として宮中祭祀に長く重きをなし
江戸時代には藤波氏を称して堂上公家の地位に列するに至る。

鎌足の父は御食子(みけこ)で4代前の中臣鎌子は
物部尾輿と共に仏教の受容に反対している。

大化の改新以来、天智天皇に仕えて功を立て
その死に際し
藤原朝臣の姓と大織冠の位を賜る。

ところが、鎌足の子である不比等はしばらく
歴史の表舞台に顔を出さない。
壬申の乱があったことが関係するのだろうか?

壬申の乱(672年)は天智天皇崩御後に
天智天皇の子である大友皇子と
天智天皇の弟である大海人皇子が
皇位を争って起こった戦乱であり、
大海人皇子が勝利してして天武天皇になる。

天武天皇の13年(684年)に制定した八色の姓の
中には朝臣52氏が名を列ねるが、藤原朝臣はないのである。

藤原不比等とその子達が
藤原朝臣として歴史に登場するのは
不比等の一女である藤原宮子が
文武天皇の夫人になってからのようだ。

天智天皇から聖武天皇の頃の
藤原鎌足とその子不比等の事跡は謎めいている。
鎌足=百済王子扶余豊璋説(関裕二氏)
不比等=天智天皇御落胤説(大鏡、公卿補任等)
もある。

仮に不比等が天智天皇の御落胤であるとすると、
父鎌足の釆女安見児を得た喜びを歌った一首が
意味深に思えてくる。

われはもや安見児得たり皆人の得難にすとふ安見児得たり

帝に仕える釆女に恋をする事など許されないが、
天智天皇の覚えがよほどめでたかったからだろうか?
(この釆女の安見児が不比等の母であるかどうかはわからない。)
しかし、このような歌が後世に伝わるのは故あっての事のように思われてならない。


(参考文献 Wikipedia)

(平成30年7月20日追記)
藤原不比等の生母としては釆女の安見児ではなく、
「車持国子君の女、与志古娘」
あるいは鏡王女(額田王の姉とも)
いわれ、天智天皇から下賜されたという。
しかし、いくら天智天皇の寵が厚かったとはいえ
天智天皇の懐妊中の夫人を下賜するだろうか?

鏡王女と鎌足の歌のやり取りは
恋愛の成就というよりは、鏡王女が鎌足に断りを入れているように私には思える。

御落胤は生母の家格も重要なのだろう。
とにかく、藤原不比等は天智天皇の御落胤だと
信じられてきたことは確かである。

(平成30年7月21日追記)

さて、天智天皇の死後、壬申の乱(672年)に勝利して即位したのは大海人皇子(天武天皇)だった。
大海人皇子は乱の翌年(673年)飛鳥清御原宮で即位する。

天武朝とそれに続く持統朝では
皇親政治といわれる。

皇親政治(日31左)
天武・持統朝から奈良時代前半にかけて存在した、
天皇と皇族(皇親)を中心とした政治形態。
特に天武天皇は大臣を置かず皇后・皇子とともに
政治を行った(後略)

この頃、藤原不比等は14歳で壬申の乱では父鎌足の従兄弟である近江朝廷の右大臣中臣金が逃亡中に近江国で討たれており、生命の危険もあったと思われる。

不比等の官歴が明らかになるのは持統称制2年(688年)で
直広肆(冠位四十八階の16番目)判事の叙任されている。31歳だった。
その後年月は不明だが直広弐(四十八階の12番目)に昇進している。

だが、不比等にとっても、その後の藤原氏にとっても
大きかったのは文武天皇元年(697年)娘宮子を入内させた
事だろう。不比等39歳の時である。

この後、不比等は中納言、
大宝元年(701年)には正三位大納言(43歳)
大宝4年(704年)には従二位(47歳)
和銅元年(708年)には正二位 右大臣(51歳)

と一気に朝廷の実力者にのし上がった。
その後、養老4年に63歳で薨去するまで
政権の中枢で、大宝律令や養老律令の制定や
平城京への遷都などに辣腕を振るった。

この藤原不比等一代の栄達に貢献したのは、
文武天皇に嫁し、大宝元年(701年)に首皇子(後の聖武天皇)を産んだ娘 藤原宮子と元明天皇に女官として仕えたといわれる不比等の後妻・県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)の存在が大きかったと言われる。

県犬養三千代は奈良時代の重要人物である。
はじめは敏達天皇の三世(四世とも)の後裔の
美努(みぬ)王(?~和銅元年(708年))に嫁ぎ、
葛城王、佐為王、牟漏女王を生む。
この葛城王が後の橘諸兄である。

また、美努王と離別後、藤原不比等の後妻となり
光明子と多比能を生んだ。

不比等は文武天皇の外戚、皇太子首皇子の外祖父として
皇親中心の政治構図を変化させていった。


さて、皇親勢力の代表的な人物としては
天武天皇の長子で壬申の乱でも活躍した
武市皇子(白雉5年(654年)~持統10年(696年))
やその子である
長屋王(天武5年(676年)~神亀6年(729年))
大宝律令の編纂責任者 刑部親王、
日本書紀の編纂責任者 舎人親王
などが有名だ。

藤原不比等と長屋王は当初は良好な関係だったようだが、不比等の子達すなわち
武智麻呂(藤原南家の祖)
房前(藤原北家の祖、平安時代栄える藤原氏の血脈)
宇合(藤原式家の祖)
麻呂(藤原京家の祖)
らとは皇嗣を巡る争い
(藤原氏としては宮子の子である聖武天皇の御子を
次の天皇にしたいが、長屋王の子女も皇嗣になり得た)
が顕在化し、神亀6年2月の長屋王の変につながるのである。

荀子の鋭角的な修辞の素晴らしさ

荀子先生は美しい文章を書かれています。

その文章通りに誠実に実践すれば
私自身が変な方向には行かないと確信しました。

その主張もさることながら
修辞の美しさ、鋭さは
孔子、孟子に劣らず
漢文の読み下しにしてもきれいです。


君子の学は以てその身を美にし、
小人の学は以て禽犢と為すのみ。

君子の学問は自分自身を人間として立派なものに仕上げるが、小人の学問は、己の知識を人に誇示し、
他人に自分を売り込む手段に過ぎない。

礼をたっとべば、未だ明らかならずといえども法士なり。
礼をたっとばざれば、察辯なりといえども散儒なり。

問うにコ(木へんに苦)なる者には告ぐる事なかれ。
告ぐる事コなる者には問うことなかれ。

技術的に真似る。
仏作って魂入れず的な実践では
秦の始皇帝の宰相の李斯のように
悲惨な末路が待っています。
(荀子は権謀を重んじて仁義を軽んずる李斯の
秦での栄達を喜ばなかった。)

李斯は趙高、胡亥と謀って太子の夫蘇を殺し
胡亥を二世皇帝に即位させますが、
奸詐に長けた趙高に捕らえられて、
散々辱しめを受けた上で殺されます。

荀子の目指した道はあくまで
李斯や韓非子とは別のものだったのかも知れません。
しばしば詩経などの古典を引用し、聖人に言及しているところから私にはそのように思われます。

君子曰く
「学は以て已むべからず」
(荀子 冒頭の言葉より)

屁理屈への対策

屁理屈はスルーするか、
いっぱい屁理屈をしゃべらせて
突っ込みを入れて笑うのが効果的だそうです。

泳がせて泳がせて、
イチイチ突っ込みを入れる。
時間が無いときは屁理屈自体無視する。

戦国時代(1493~1573) 未了

戦国時代は西暦1493年~1573年までというのが、
近年の有力な説のようです。

明応2年(1493年)4月に室町幕府で政変が起こります。
管領の細川政元が将軍10代将軍足利義材(よしき)を廃し
足利義澄(当時義遐(よしとお)と名乗る)を11代将軍として擁立したのです。

この一件をもって戦国時代の始まりとするようです。
この時期の元号を列記すれば

明応年間(1492~1501年)10年
文亀年間(1501~1504年)4年
永正年間(1505~1521年)18年
大永年間(1521~1528年)8年
享禄年間(1528~1532年)5年
天文年間(1533~1555年)24年
弘治年間(1555~1558年)4年
永禄年間(1558~1570年)13年
元亀年間(1570~1573年)4年

となります。
また、織豊時代も含めると

天正年間(1573~1593)20年
文禄年間(1593~1596)5年
慶長年間(1597~1615)20年
※慶長の次は元和(げんな)年間

も入るでしょう。

天皇では
第103代 後土御門天皇(1464~1500)寛正4~明応9
第104代 後柏原天皇(1500~1526)明応9~大永6
第105代 後奈良天皇(1526~1557)大永6~弘治3
第106代 正親町天皇(1557~1586)弘治3~天正14

第107代 後陽成天皇(1586~1611)天正14~慶長16
第108代 後水尾天皇(1611~1629)慶長16~寛永6

と4人から5人の帝の御代にあたります。

戦国時代の終わりの出来事としては
織田信長が自ら擁立した15代将軍足利義昭を
追放し、室町幕府が滅亡した事です。

西暦1573年(元亀4年)7月の事でした。
直後の7月28日に改元あって天正年間が始まります。
義昭の追放と天正改元は織田政権が確立した象徴的出来事でした。

戦国時代初期の世界情勢ですが、
ポルトガル王国は西アフリカを南下する
探検航海を繰返していて
1488年(長享2年)にバルトロメオ・ディアスが
アフリカ南端の喜望峰に到達。
1498年(明応7年)にはヴァスコ・ダ・ガマが
インドのカリカットへの航海に成功します。
また、1500年(明応9年)にはカブラルがブラジルを発見しました。

1492年(延徳4年・明応元年)はイベリア半島にとって
エポックメイキングな出来事がありました。
イベリア半島の最後のイスラム王朝ナスル朝の都グラナダが陥落し、国土回復運動(レコンキスタ)が終了したのです。

アラゴン王フェルナンドは両シチリア王も兼ねていましたので海洋交易の利権に敏感であり、
アラゴンとカスティリャが合併して出来たイスパニア新王国の財源を確保するためにすぐさまインド航路開拓に乗り出します。

先年アフリカ回りでインド航路を開拓したライバルのポルトガルに対抗すべく、イスパニア王が目をつけたのが
ジェノヴァの商人コロンブスです。

彼は大西洋を西へ西へと進めば地球は丸いのでアジアに、到達出来ると考えていました。
コロンブスはグラナダ陥落と同年10月に
バハマ諸島を発見しヨーロッパ人のアメリカ大陸進出の
先駆けになりました。

イングランドでは百年戦争(1338~1453)、ばら戦争(1455~1485)による国土の荒廃からようやく立ち直り、
ヘンリ7世によってチューダー朝の絶体王政が確立し始める時期です。

西アジアでは1507年にチムール帝国(1370~1507)が
遊牧民ウズベクの攻撃で滅亡します。
ティムール朝の一王族バーブルはその後アフガニスタンのカーブルに拠り1526年(大永6年)にムガール帝国(1526~1858)をインドに建国しました。

大航海時代が始まりつつあり、
1543年(天文12年)種子島に鉄砲が初めて伝来し、
武士の戦の仕方が大きく代わりました。

火縄銃(マッチロック式のマスケット銃)は
原型となるハンドキャノンが、13世紀の中国で初めて使われ、14世紀初期にアジアからヨーロッパにもたらされました。

15世紀初期のフス戦争(1419~1436)が初実戦と言われています。

鉄砲の起源が13世紀の中国であり、
ヨーロッパを迂回して1543年に日本に伝来するのですからえらく遠回りをしたものです。

もっとも蒙古襲来の際に元軍が「てつはう」という
火器を使用したと記録にあるので
1274年には既に、鎌倉武士達が鉄砲の原型に出会っていると言えるかも知れません。


(平成30年7月17日追記)
どうもポルトガルの種子島伝来前に、
明国から日本に銃の原型が伝わっていたようです。
火槍といい、応仁の乱頃には既に伝来していたとか。
ところが威力が弱くて使い物にならず、
武士には採用されませんでした。

種子島銃が短期に量産されたのは、
火槍に関する技術の蓄積があったからではないでしょうか?
鉄砲の一大生産地に自由都市堺がなったのは、
明との交易で火槍の知識があったかも知れません。

ちなみに銃の事を中国では槍と書くそうです。


荀子について(言葉や来歴など)

(平成30年8月13日追記)
荀子を気長に全編書写する事にしましたので、
荀子の言葉については稿を改めて記述します。

荀子は古代シナの戦国時代、趙の国(現在の中国山西省付近)の出身でしたが、
斉(現在の山東省ツーポー市)の国に遊学しました。
斉の都、臨シの城には稷門という門があって
その側に古代シナの一大アカデミーがありました。
「稷下の学」と呼ばれます。

兵法家の孫ピン、
陰陽家の鄒衍、
蘇秦、張儀の師である鬼谷子などが有名です。

荀子は名だたる学士達を束ねる祭酒になること三度あったと伝えられています。
相当の学識があったのだと思います。

文章を読んでいて博物学者的な好奇心のあった人ではないかと思いました。

干・越・夷・貊の子、生まれたるときは
すなわち声を同じくすれども、
長ずればすなわち俗を異にするは、
教えこれをして然らしむるなり。

(口語訳)
生まれた時は、南方江蘇省の異民族である干も
浙江省の異民族である越も、東方の異民族である夷も
中国東北地方ツングース系の異民族である貊も
生まれた時の「おぎゃあ」という産声は同じであるのに
成長すると言語、習慣、風俗が全く違ってしまうのは
その国の教育環境が人を変えてしまうからだ。

このような記述が多く見られます。
「稷下の学」に属する学士達の多彩さが
荀子の思索のバックボーンになっています。

荀子の実践的な姿勢は大変参考になります。
じっくり学びたい思想家になりました。
これでこの稿は締めたいと思います。
(追記以上)


(平成30年7月17日追記)
荀子(漢1202上、Wikipedia)
諱は況、尊称として荀卿、または孫卿とも称される。
三国志で有名な曹操の軍師荀イク、荀攸はその子孫とも
いわれる。

晩年に稷下の学士となり、さらにその後 戦国四君の一人
楚の春申君に仕えて蘭陵(現在の山東省臨沂(りんぎ)県)の令となった。天人分離説の立場から性悪説を唱えて
孟子を批判。
人の欲を制するのは規範としての礼であるとして
礼至上主義を説いた。
弟子に法家の祖となる韓非子、
晋の始皇帝の宰相となる李斯らがいる。
以上

蘭陵は山東省の南部にありますが、
山東省は斉の国のイメージが強かったので
楚の国の勢力下だったことは意外でした。
春秋の楚は湖南省中心に勢力を張っていましたが、
戦国時代には韓や秦の圧迫を受け長江や淮河の下流に
シフトしているようです。

前半世は未詳ながら趙の国の人らしいです。
荀姓の人は
山西省運城市(漢代河東郡が置かれた。関羽の出身地)
山西省新絳県(周代に荀という国があった)や
シュン(旬にオオザト)という国のあった山西省運城市臨猪県(荀姓の人はシュン侯の後裔と言われている。)
にゆかりがあり、
いずれも春秋時代には晋に属していた地域です。
三晋分裂後は魏が領有したようですが、
荀姓の一族は晋の時代を通じて趙の地域にも広がっていたのでしょう。




君子の徳目である礼について
これだけ分かりやすく書いている書もありません。

空気を読めない私には最適の書です。
道を学ぶ者には良き薬となり、
志を遂げんとする者には良き鞭ともなりましょう。
しかし、薬はいつ如何なる時も効くとは限らず
鞭は使うときを誤れば馬の機嫌を損ねます。

荀子の説はその表層をなぞって
チョウソ、王莽の如き輩を生み、
また、君子は環境により育つとすれば
真の平等感には遠いと思います。

荀子本人に赤心の誠があったのか、
それは荀子本人でなければ分かりません。
しかし、荀子の言を聞いて
その人間観察が的確であるだけに
一抹のあざとさを感じるのは私だけでしょうか?

荀子が諸国の王に重く用いられなかったのは
彼の人工的な美徳に信が置けなかったからではないでしょうか?

私は教育環境が整わない中で学ぼうとする人達に対して
下手をすれば君子になることを諦めさせる、
絶望感を与える恐れがある書だと思います。

人間は自発的に行動しないと長続きしません。
だから、その点ではその人の「本性の善の開花」を待つしかないのではないかと考えます。

逆に本性は悪であるからと
教育環境を整えて、礼を教え込んでも
本人の自主性が育たない限り、
その人は君子にはなれないでしょう。

そんなモヤモヤを抱えて読みました。
しかし耳に痛い指摘も多く、参考になります。

以下に抜粋して行きたいと思います。

高山に登らざれば天の高きことを知らず、
深谿(しんけい 深い谷)に臨まざれば地の厚きことを知らず、
先王の遺言を聞かざれば学問の大なることを知らざるなり。

実際に行動したり、学ばなければ
物事の難しさ奥深さはわからないということです。

君子の徳目を具体的に分かりやすく説いているために、
あざとさや偽善への誘惑、罠が待ち受けているような気になり少し憂鬱な気分になります。

こうすれば人に嫌がられるだろうから
君子はこうすべきである。
そのように説くと、人間は君子らしい行動を演じようとし、
君子の道、学問の道を究める方に向かわず、
名利栄達の為に君子然と振る舞うようになるのではないか?

何かモヤモヤが抜けません。

中国の古典7 荀子 戸川芳郎・他訳 学研
の本です。
戸川先生は解題でマルクス・エンゲルスやレーニンを
引用されていました。

全くマルクス主義に関して知識が乏しいので、
言葉を理解できずに荀子の真の価値を理解していないだけかもしれません。

将来的にはマルクスやニーチェの本に格闘出来るようになりたいものです。

(平成30年7月17日追記2)

感銘を受けた言葉の追記です。

問われずして告ぐる、これを傲(さしでぐちの意)と謂い、一を問われて二を告ぐる、これをサン(口へんに贊)
(いいすぎ)と謂う。傲・サンは非なり。
君子の学は響くが如し。

大変耳に痛い。






作史三長 才 学 識

唐代の史家 劉知幾が述べた歴史家に必要な
3つの資質だそうです。

武韋の禍の最中に史官になった劉知幾が見たものは
歴史記録を曲筆し、権力者にアユ追従するだけの
カネで地位を得た史官達でした。
彼は官を辞して「史通」という書物を書き上げます。

劉知幾は作史にあたり、
歴史家には
才 歴史を著述する才能
学 幅広い学問の知識
識 政治的な倫理性
が必要であると考えました。

私は三番目の政治的倫理性が重要であると思いました。
歴史家ならずとも
人間として説得力を持つ言葉を話すためには
作史三長 才・学・識の資質を磨く事は重要であると思います。


家にあらば

膝枕の話題のついでに久しぶりに和歌の記事を書こうとしたら膝枕ではなく草枕でした。
(危なく恥を書くところだった。)

家にあらば 妹(いも)が手まかむ 草枕 旅にこやせる
この旅人(たびと)あはれ

聖徳太子

家にあったら妻の手を枕にするだろうに
今はこうして草を枕に横たわっている(死んでしまっている)旅先で倒れてしまったこの旅人よ。。。ああ。

似たような歌で印象に残っている歌が

家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば
椎(しい)の葉に盛る

有馬皇子

謀反の嫌疑をかけられて紀伊の国に護送される際に詠んだ歌です。食器ではなく椎の葉っぱに飯を持って食べる
孝徳天皇の皇子であった有馬皇子には耐え難く、
また同時に不安な気持ちであったのでしょう。

この護送中に詠んだ歌に

磐代の 浜松が枝(え)を 引き結び 真幸くあらば また還り見む

磐代というと福島県を思い浮かべましたが、
和歌山県日高郡みなべ町 の 岩代地区の事だそうです。

結び松というらしく、古人は旅の無事や、何かの誓いを立てた時に松の小枝を結んだそうです。
有馬皇子はその後紀伊の国の藤白坂で絞首されました。

磐代の 岸の松が枝 結びけむ 人は帰りて また見けむかも

磐代の 野中に立てる結び松 情(こころ)も解けず 古(いにしへ)思ほゆ

詠者不詳(長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)が作者とされる)

持統天皇の紀伊行幸時に有馬皇子を偲んだ鎮魂歌のようです。持統天皇の父は天智天皇なので因縁めいたものを感じます。

(平成30年7月14日当日追記)
有馬皇子は斉明女帝や中大兄皇子らを紀伊の国(白浜温泉)に行幸させて、その留守中にクーデタを企てますが、
一味と思われていた蘇我赤兄(天智天皇の時代に左大臣にまでなっている)に裏切られ、逆にとらえられて
行幸中の中大兄皇子の詮議を受けるため紀伊の国に護送されました。

蘇我赤兄が有馬皇子をはめた事件、蘇我赤兄の背後に
中大兄皇子がいたのではないかと推察されます。
聡明で18歳という若さで亡くなったので悲劇性たっぷりです。

古代人の印象に残る悲劇だったのでしょう。

annoying うざい ~

だるい lazy に続き、ウザいです。

annoying が そのようです。
しかし、不安があります。
google クロムで検索 ○○ 英語と入力すると
結果の上位に翻訳の単語が表示されるのですが、

膝枕を英語で探した際に
knee bolster
膝頭の長枕
と出てきたのです。

ノート型パソコンの事を
外人はラップトップピーシーと言います。
lap-top pcです。
なんでノート型をlaptopと言うのか
無精して今まで知りませんでしたが、

lap(1026左)は座った状態の膝から太ももの部分です。
モニター、本体、キーボードのあるパソコンは
desktopと言われます「机の上」のパソコンで
laptopは「膝の上」のパソコンだと合点しました。

そこで膝枕ではどうだろうと
調べたら
knee bolsterです。
クロムの上に出てくる翻訳は
機械的じゃなかろうか?

膝枕は
sleep on one's lap
が自然なようです。

さて、前置きはこのくらいにしまして
annoyについて書いていきます。

annoy(75左) ォノーイ

三 annoys ズ
過・過分 annoyed ド
現分 annoying

他 1 悩ます、困らせる、むっとさせる。

He is always making fun of us and that really annoys me.

彼はいつも私たちを馬鹿にして、腹が立つったらありゃあしない。

making fun of A(fun 734)
Aをからかう、馬鹿にする

Does it annoy you when people comment on your
appearance?
容姿の事でとやかく言われるとうんざりしませんか?

people(1348) 人間、人々 (公文書固くpersons)

People forgive but not forget.
人は許すが決して忘れないものだ。

forgive (713) for 禁止 + give 与える
許す。
forget(712)for 禁止 + get つかむ
思い出せない、忘れる
頭の中のある記憶がつかめない。。。思い出せない
忘れた。forget

for-は禁止、除外、無視を意味する接頭辞
(あんまり語数はありませんでした。)

forbear(709)差し控える
forbid 禁止する


annoyance(75左) ォノーイアンス

U 1 (行為、事に対する)苛立ち、腹立たしさ
annoyance at ~
annoyance with ~
困惑
with annoyance

C 2 厄介な事、迷惑な事、悩みの種

to one's annnoyance
ひどく腹の立つ事に

annoyed (75左) ォノーイド
形 通例 be annoyed
1 (人などが) (人などに/ 事・人などに/~すると・・・して)腹を立てて、苛立って、ムッとして

be annnoyed with
be annoyed at
be annoyed that節
be annoyed by
be annoyed when節

I'm annoyed with myself for not reading the situation.
私は事態を把握できない自分に腹立った。

be annoyed at ken's rudness.
ケンの無礼な態度に腹を立てる。
be annoyed by the commitee's decision.
委員会の決定に腹を立てる。
※受動的(受け身的)意味合いの多い場合にby を用いる。

2 (人などが) (事などに) 悩んで 困って
be annoyed by

annoying
形 (事 人などが)腹立たしい、厄介な (人をいらだたせる)、うるさい

have an annoying habit of doing
~をして人をいらいらさせる癖がある。

habit(819左)ヘァビット(この表記法はさすがにどうだ?)
復habits ツ
U 習慣 癖

annoyingly (文を修飾して) 腹立たしい事に

あまりにも語彙力がなく、
文法の知識もないので記憶の定着がいまいちです。
しかし、私自身の自発性がないといくら優れた教材があっても宝の持ち腐れです。

求めよ さらば 与えられん
です。

文法方面からも攻めてみたり
嫌味なくらい日常で使い倒したりしないとダメですかね。




求めよ さらば 与えられん

求めよ さらば 与えられん
尋ねよ さらば 見出ださん
門を叩け さらば 開かれん

本当にこの言葉の通りです。
求める物が今までわからなかったか、
求める気持ちが足りなかったんでしょう。

未来への手がかりはないように見えて
神様はきちんと手の届くところに用意してくれています。

ありがたいことです。