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蘇我氏

万葉集の冒頭は
雄略天皇と舒明天皇の歌で始まります。

舒明天皇は天智天皇と天武天皇の父であり、
奈良時代は天武系の天皇が続き、
孝謙女帝崩御の後は天武系が断絶。
天智天皇の血筋を引く白壁王が
光仁天皇として即位し、現代の皇室につながります。

舒明天皇は天智・天武両帝の父であり、
また、欽明天皇の嫡流になります。
系図的に見ると用明天皇、崇峻天皇は
敏達天皇の弟にあたります。

用明天皇、崇峻天皇、推古天皇は
庶流にあたると考えられ、
敏達天皇の嫡子・忍坂彦人大兄皇子の
血脈が正統であるとの意見が根強かったと思われます。

用明天皇の皇子である聖徳太子、
その子の山背大兄皇子が皇位に即かれなかったのは
その辺りの事情があるかも知れません。

また、忍坂彦人大兄皇子は茅渟王という王子も
もうけていて、斉明天皇と孝徳天皇の祖父でもあります。

舒明天皇は欽明天皇嫡流として
重要な血筋にあたるので、万葉集の二番目に歌が
載っているのかも知れません。

さて、私は雄略天皇は古代日本の最盛期の大君だったのではないかと考えます。
即ち倭王の武であり、ワカタケル大王の事です。
479年、502年と梁書・南斉書に遣使の記録がありますが、その頃に日本の岩手県南部~朝鮮半島南部にかけて
雄略天皇は勢力を広げていたと考えます。

もっとも、その支配は磐石ではなく、
聖徳太子の登場する時代には
朝廷の権力は次第に退潮していたのではないでしょうか?

古代的な氏族制度の王権は東アジアの情勢に対応出来なくなり、シナ大陸の律令制度という中央集権システムに
移行しようとしたのが、飛鳥・奈良時代ということになるのでしょう。

隋唐の文物・制度を取り入れる担い手となったのが、
飛鳥時代の蘇我氏と奈良時代の藤原氏です。
この2氏は天皇の外戚として権勢を振るった点も似ています。

諸豪族の連合した神権政治から
天皇の世襲が固まった集権政治に移行し、
職能でなく、外戚として権力を掌握する先駆けとなったのが、蘇我氏であり、藤原氏はそれを真似たのかも知れません。


蘇我氏は蘇我氏自体が渡来人である
との説があったようですが、その説は現在は否定的です。
記紀によれば孝元天皇の三世の孫
武内宿禰の子、蘇我石川が蘇我氏の祖とされます。

○蘇我石川宿禰
応神朝の人物とされる。

○蘇我満智(そがのまち)
履中天皇二年、執政官となる。
雄略天皇の御代に三蔵を
(斎蔵(いみくら)、内蔵(うちくら)、大蔵(おおくら))を
検校させるとの記事あり。
彼の代から朝廷の財務を蘇我氏は管理していたようである。

○蘇我韓子(そがのからこ)(~465年)
465年 新羅征伐に参戦し紀大磐と不和になり、
いさかいの中で溺死。

○蘇我高麗(そがのこま)(生没年未詳)
業績の記録なし。
(私見・韓子と同一人物と考えられないか?)

○蘇我稲目(506?~570)
宣化天皇(535~539)
欽明天皇(539~571)
の二代に渡り大臣となる。

物部尾輿と権勢を競い、
仏教の受容を巡り対立した。
この争いは次の世代の
物部守屋(もののべのもりや)の
討伐により決着した。

○蘇我馬子(そがのうまこ)(550?~626)
敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇に大臣として
仕え蘇我氏の最盛期を現出した。
邸宅の庭に島を浮かべた池があったことから
嶋大臣の通称がある。

○蘇我蝦夷(そがのえみし)(?~645)
豊浦大臣の通称がある。
叔父である境部摩理勢(さかいのべのまりせ)を殺害し、
甘樫丘に邸宅を営みミカドと呼ばせたり、
息子の入鹿(いるか)に紫の冠(官位十二階では最高位の色)を授けたり、弟に物部大臣と名乗らせたりした。
乙巳の変で入鹿の死を知り自害。

○蘇我入鹿(そがのいるか)(?~645)
父蝦夷と共に権勢を誇り反感を買う。
乙巳の変の二年前には、山背大兄皇子を討ち
一族を自害に追い込む。
また、畝傍山に城塞を築く。
645年に飛鳥板葺宮で中大兄皇子、中臣鎌足らに
討たれる。

蘇我本宗家は入鹿で断絶。

○蘇我倉麻呂(そがのくらまろ)
蘇我馬子の子。

○蘇我果安(そがのはたやす)
壬申の乱で近江方に与し自害。

○蘇我日向(そがのひむか)
蘇我石川麻呂の謀反を讒訴。

○蘇我連子(そがのむらじこ)
蘇我氏の血脈を後代につなぐ。
娘の蘇我娼子(そがのしょうじ)は
藤原不比等の妻となり、
武智麻呂(藤原南家)
房前(藤原北家)
宇合(藤原式家)の母となった。


○蘇我赤兄(そがのあかえ)
有馬皇子に謀反を唆す。
壬申の乱の後流刑。

○蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)
謀反の嫌疑をかけられ山田寺で自害。

○蘇我安麻呂
病床に臥す天智天皇を見舞う大海人皇子に
「よく考えて返答をするよう」忠告する。
石川石足(いしかわのいわたり)の父


以上、蘇我氏の歴代です。
古い歴史には不可解な点も多々あります。
私たちはサスペンスのように事件の黒幕を探したり、
悲劇の英雄に心を寄せたりしますが、
全て引っくるめて、先祖の叙事詩だと私は考えます。

このことを考えるとき
時代は違いますが、
崇徳上皇の
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末にあはんとぞおもふ。

という歌や、

原敬の
「誰か朝廷に弓引く者あらんや、戊辰戦役は、政見の異同のみ」
旧南部藩士戊辰殉難者50年祭における祭文
の言葉が私は頭に浮かびます。

私はそんな風に歴史を捉えたいです。
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舒明天皇の御製歌


舒明天皇
天皇(すめろぎ)の、香久山(かぐやま)に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌

大和には郡山(むらやま)あれど
とりよろふ天の香久山(かぐやま)登り立ち
国見をすれば国原は煙(けぶり)立つ立つ
海原(うなはら)は鴎(かまめ)立つ立つ
うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま)大和の国は


この歌は私、大好きです。
しかし、なかなか諳じられません。
かまめ立つ立つ、けぶり立つ立つ
と繰り返すところが印象的です。

うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は。。。

大真面目な話で、このように歌に言祝がれるような
内実のある日本国でずっとあり続けて欲しい。

実際は困難でも、あえて言祝ぐ習慣も私は好きです。
冬の厳しい時期に初春として正月を言祝いだり、
白雪を花に見立てたりします。

いつか、狂言の中継を見ましたが、
(なんという演目かわかりません。)
太郎冠者が主人から酒を山越えして
誰かに届ける役を仰せつかって
何頭かの牛を追いながら、山を越えます。
降りしきる雪、強い風、牛の姿が
本当に目に見えるような気がしました。

太郎冠者は難儀して、途中で人家に立ち寄るのですが
そこで茶をご馳走になって人心地つきます。
そのお返しにと家の亭主に
積んできた酒を振る舞い、自分も飲んで
大いに酔っぱらってしまいます。

この酔っぱらった時に、
寒々しい雪山を「山一面、白い花が咲いたようだ」と
見立てて喜びます。
その後、積んできた酒を空にして、
自分の主人に大目玉を喰らうという粗筋でした。
(確かお正月に見た記憶があります。)

しかし、言祝ぐのではなく、
内実のある幸せな国になって欲しい。
内実の伴う国家とは何なのでしょうか?

出来れば仙人が住むような
蓬莱山みたいな長閑な仙境が理想です。

(平成30年8月12日追記)
私が中継で見た狂言は木六駄という演目らしいです。
木三駄って最初書きましたが、間違いです。
しれっと訂正。

今後のノート更新の予定

平成30年8月8日作成
(平成30年9月1日 進捗を確認すること)

歴代天皇
元号と同時代の出来事
奈良の政治家
藤原氏系譜
平家系譜
源氏系譜
鎌倉幕府歴代将軍
北条氏執権・得宗家系譜
室町幕府歴代将軍
三管四職
関東公方、関東管領
徳川歴代将軍
明治政府要人
歴代内閣総理大臣

日本史に関してはこのような事柄の
簡単な把握をまとめたいです。
しかし、気づいたのですが、
簡潔明瞭に記述する事は
事柄を熟知していなければ不可能だったりします。
マサチューセッツ植民地の歴史をまとめようと思いましたが、あの辺はアメリカ史の様々な起源が
凝縮されていて手に終えず一旦断念した事があります。

他の州もそうですが、
アメリカの州1つの歴史で本が何冊も出版できるでしょう。

この日本史のように
様々なジャンルをちんみりとずつでも
書いて頭にインプットし、
良著をサクサク読めるようにするのが
目的です。

他分野ではキリスト教、荀子
アメリカ大統領
地理学
英単語
易経
法律
ぐらいをグルグルやる予定です。

多岐亡羊にならないようにしたい。
雑なTODOリスト記事でございます。




男女平等に関するアイディア

最近日本の女性差別の実態が暴露されています。
今の社会は男性のライフサイクル前提の社会システムを
無理矢理女性に当てはめようとするから
弊害が出ていると思います。

男の私が言うのも気が引けるのですが、
女性には月経という生理現象があります。
出産・育児も大切ですが、
女性にとって月経は正に「女子のたていと」であり、
体調の変化も人により千差万別ですし、
同じ人でも人生の時期により生理による体調変化の辛さは変化します。

本当は企業や男性が女性の生理に対してもっと配慮してあげるべきだと思いますが、
女性の方々自身が男性に自分のバイオリズムを教える事はやっぱり恥ずかしかったり、抵抗感もあると思います。

実際、私も女性の生理について
性的好奇心の対象でした。
しかし、好奇心故に調べていくと、
症状の比較的軽い人、重い腹痛、頭痛に悩まされる人と
様々です。

最近は頭痛薬とか生理用品が進歩していると
思いますが、
女性は本来その期間中は安静にすべきではないでしょうか?
(追記)あまり薬に頼りすぎると、本来の自然治癒力が落ちてしまう。「男並みに働けよ」と鞭打つばかりは
どうなのだろう?妊活にも絶対良くない筈です。
少子化問題が深刻になっているのに、女性の生殖能力を
奪う方向での男女平等の実現は、心配になります。

ダイエットやスマホなどの電磁波など
将来お母さんになるべき現代の若い女性達の
環境はあまりよくないと思います。

血の汚れがあるから。。。
と物忌み宿下がりがあった平安時代の方が
女性は楽な面もあるかも知れません。
枕草子や源氏物語などの女房文学は
宿下がり中に書かれた物らしいです。

このように考えますと、
女性のリーダーの役割が自ずと見えてきます。
女子社員の月経周期や出産のバイオリズムサイクルに
合わせたスケジュール管理やキャリア形成のサポートです。

これは男がやると、セクハラにつながる可能性がある。
女性にとっては、自分の性的な弱点を暴露する事にもなるので、大変抵抗があると思います。

(追記)
性的な弱点とは、生理周期で妊娠のしやすい日など類推されうるという事です。
女性にとっては異性にも、同性にも本能的に知られたくない筈です。
そこで、カムフラージュは働く女性自身がする方が
よりプレッシャーがかからないかも知れません。
(追記以上)

女性には男性並みの給料を保証しつつ、
休暇を多目にとってもらう。
半分仕事で半分休みのような休暇と
体調が苦しい時の本当の生理休暇です。
これをうまく織り混ぜてカムフラージュするシフトを組み、男性とは違ったクリエイティブな仕事をしてもらう。

遊び半分(仕事を離れたという意味で)のマーケティングとか趣味に打ち込むなどです。
ここで給料は男性並みにする。
暇と自由なおカネのある女性には経済効果も見込めます。

(追記)
法人税率を旧に復する方法で実現して欲しい。
女性の給与水準を下げずに
女性の仕事やキャリアアップ、人生における自己実現と月経、結婚、出産、育児といった
女性の人生のサイクルに合わせた働き方の両立を
図る施策を行う企業の法人税を大幅に控除すべきです。

また、育児放棄の問題もありますが、
核家族化や個人志向が強まるご時世
昔のように姑や実母、姉妹や従姉妹、ご近所さんなど
育児の相談やヘルプを頼む相手が少なすぎます。

非ITのリアルな子育てサポート企業など設立し、
しかも、Webで委託するのでなく、人となりがわかった
正職員が孤独なママのリアル○○知恵袋になってあげるのです。

法人税を減税しても内部留保を溜め込むだけ、
従業員の人件費や福利厚生費として経費で落とさせた方が働き方改革につながるのではないでしょうか?
(追記以上)


女性に居心地の良い会社は、結婚・出産・育児を
経ても復職率が高いでしょうし、
一旦会社を離れて客観的に会社を評価してもらったり
出産育児を応援する商品開発などでは貴重なご意見番になります。

恐らく女性と男性の給与格差をなくし、
女性が自由に生きられる社会になると
男性のあるべきライフスタイルも自ずと定まると
思います。

また、女性のスケジュールやキャリア形成は
女性の管理職が管理する。
男子禁制のブラックボックス人事管理を行えば
女性管理職は必然的に増えます。

性差による持ち味を活かす方が
真の男女平等社会だと思います。
女性は無理して男性並みに働く必要もないし、
男性は逆立ちしても子供を生むことはできないのですから。

私の平等観は万事このような感じです。
お百姓はお百姓として
漁師は漁師として
会社員は会社員として
公務員は公務員として
生きやすい世の中を作る。

(追記)
天地自然の道理に叶う施策を行えば
自ずと調和のある社会になると思います。
天地自然の道理といっても
古法に道理がない場合もあります。
学問の発展や時代の変化に合わせた制度改革が
道理に叶う。

どうも従来のフェミニズムは
道理よりイデオロギーに重きを置いている気がする。
(追記以上)

不快な思いをした女性の方もいるかも知れませんが
女性にとって「人生のたていと」である
月経という生理現象について
社会的に議論が活発になっても良いのではないかと
私は考えます。


(追記は平成30年8月10日)



御譲位と改元の新慣例を制定してはどうだろう?

日本では改元は新天皇の即位の直後行われて来ました。が、一世一元の制の元祖である明国では、
越年改元という方式が多く採用されていたようです。
即ち、新皇帝即位の年の翌年から新しい元号を用いるのです。

具体的には御譲位後平成31年5月1日に新元号を発表しますが、
新元号の使用は31年の翌年からとし、正月元旦から新元号の元年とする。

この方式は日本では前例がありませんが、
改元の影響を様々な分野で受ける現代社会では
社会的な混乱を最小限にしつつ、
オリジナルな暦制度のよりよい運用を図るために
柔軟に対応するのが必要ではないでしょうか?

越年改元だけでなく、
旧元号○年と新元号元年が併存する年をなくし、
即位翌年を新天皇元年、新元号元年とすれば、
現代に住む私たち国民も
後世の日本国民も、また、諸外国の人々も
分かりやすいのではないでしょうか?

新元号に対する官公庁や金融機関、企業の対応も
即位と同時に来年の元号が分かり、
翌年元旦から丸一年元年にすれば、
ITシステムのプログラム変更の負担も軽減されるのではないでしょうか?

私が提案した所でなんの説得力もないでしょうが。。。
本当は皇紀という時間軸を私は推奨したいのです。

西暦のADはアンノドミニ(主イエス・キリストの年に)という意味であり、キリストの生年を基準にしたものです。紀元前をBCと書くのはBeforeChristの略です。

皇紀は今年は2678年になります。
神武天皇の実在と約2700年の歴史があるのか
疑念に感じる人も多いでしょう。

しかし、イエス・キリストの生年が本当にAD1年か
わかっていないし、12月25日に生まれたかさえ
さだかではない。
クリスマスは冬至を祝う祭の名残という説もある。

こう考えれば、神武天皇即位紀元の皇紀の真偽に
目くじらを立てる事もないと私は思います。

まあ、しかしそれでも記録の裏付けのとれぬ
神武紀元に抵抗があるなら、
元号を使用した西暦645年、大化元年を新皇紀元年とし
新皇紀1400年にあたる西暦2045から日本の公式カレンダーとして採用普及に努めてはどうでしょうか?

私は日本的新憲法を定めるべきと考えていますが、
暫定的改憲と20年かけての創憲プロジェクトを立ち上げて西暦2040年か西暦2045年まで政・官・財・産・学の世界でそれぞれ熟議を重ねてもらって新生日本の国家のあり方を形にしてほしいと考えたりします。


租税 商行為 通貨の本質を考えたい

租税を考える事は世界を救う鍵です。

王様はなぜ誕生したのか?
農耕社会では特に強い王権が誕生しますが、
その他の人がリーダーの誕生を容認したのは
リーダーの存在が
コミュニティ全体の利益に貢献していると考えたからです。

多くの文明では神権政治が行われましたが、
神の意思を正しく把握する奥義は
天文観測による農事暦の管理だったと思います。
統計的に天文観測のデータと
豊作凶作の統計、人事の善悪の記録は
あまり精査されずに因果関係を見出だされ
占術として確立しました。

今、世界は混迷していますが、
万人が万人の王たる民主主義社会になったからだと思います。

国民一人一人が国家の王たる主権者なのですが、
私も含めて自覚がないのです。

それを端的に示しているのが租税に対する
意識の低さです。
サンジャポでダレノガレ明美さんが
「最近驚いた出費は税金」と発言していました。

私は納税の実績があまりありません。
ですから高額所得者の人々の心理は
わからないのですが、
仮に私が高額所得者であったとして
自ら得た報酬を税金でごっそり持っていかれたら
口を尖らせて文句を言うだろうと思います。

だから、ダレノガレさんの発言を聞いて
複雑な思いになります。
「人類はこのままじゃいかん」
ギリシアの民主制は
ティモクラシーから
デモクラシーに移行したと塩野七生さんの本で
読んだことがあります。

高額所得者に対しては
巨額の納税義務を課すのであれば
ティモクラシー的なインセンティブを
法的に承認しないと
タックスヘイブンやオフショア市場への
節税、脱税行為は後を立たないと思います。

さらにティモクラシーの弊害もあります。
高額所得者のインセンティブは
名誉、権威、文化的なもので
権力とは切り離したものでないと行けません。

租税は王の名の元に
集められたものであれ、
政府の名の元に集められたものであれ、
公共インフラを保全し、
富の再分配を行って、
公平な政治、人間の尊厳を保つ為に
使われるべきものです。

しかし、政府や王が我田引水を行えば
たちどころにその機能は失われます。
納税額によって政治への発言権が増すティモクラシーでは癒着腐敗が横行するのは目に見えています。

そういう点から私は「人工的な貴族制度」
(人工的とは特別な権利義務が明確化していて
法的な縛りがよく効いているという意味です)
に可能性を見いだせるのではと考えていますが、
少数派の意見でしょう。

養老令を調べましたが、
商行為に関するものは
関市令(げんしりょう)の20条だけのようです。
商人は古代から存在し、
ノウハウの蓄積(ユダヤ人、ギリシア人、フェニキア人、ソグド人など)はあった筈ですが、
統制すべき国家の法整備の貧弱なことに驚きます。

古代において商行為が社会全体に与える影響が
あまり大きくなかったか、重要視されていなかったのでしょう。
しかし、現代においては商業・交易の社会に与える影響力の絶大なことを否定する事は不可能です。

商業・交易の法的な整備が
急がれるのではないでしょうか?
規制緩和ではなく、
よく練り上げられた法整備が必要だと思います。
しかし、一国、一業種の都合では
よく練り上げられた商法・貿易法とは言えません。

シリアやパレスチナの難民の人々や
アフリカ、南米のプランテーションで
バナナやコーヒーを作っている人々の意見や主張が
反映される仕組みを構築する事が前提です。

また、通貨の本質についても
私は考えたいですが、
その前にマクロ経済学が立ちはだかります。
マクロ経済学はなかなか理解が難しいです。

しかし、平氏政権時の宋銭の普及と天災による
実体経済の大打撃による社会不安の発生は分かりやすかった。

歴史には様々な学問の具体的事例が多くあります。
私はそのような視点が足らなかったと痛感しています。

今後も延々、ノートのような記事が続くと思いますが、
経済格差や社会矛盾が大きくなる事が
戦争や外交軋轢の真因ではないでしょうか?

租税、商行為、通貨の本質に
迫っていけたらと私自身思います。

歴史
経世の学(経営・経済・政治・法律・会計・心理学)
修辞学
語学
教養(科学・人文学・統計としての占術)

これらの修養に今後は励みたいです。


(追記 平成30年8月7日)
関市令の条数は12ではなく20でした。
訂正致します。

歴史は進歩するものか?

駅鈴というものがある。
律令時代に勅使や官人が全国の官道を往来する際に
騎乗の馬に公用であることを示すために
ぶら下げた鈴なのだそうだ。

駅鈴の音色はどんな音がしたのだろう。
銅鐸などの音色と共に聞いてみたい
古代の音である。

五畿七道が整備されたのは有名だが、
東海道、東山道などの官道に
駅家(うまや)という施設が建設されていたのは
知らなかった。

駅家は官道に16キロメートル間隔で設置された。
特に山陽道の駅家は瓦葺きで立派なものが
建てられた。
シナ大陸や朝鮮半島からの外交使節の
目も意識したのだろう。

駅家には地域の有力者から駅長が選ばれ、
その地の行政を担っていたともいわれる。
駅子と呼ばれる人がいて、
公用官人の次の駅までの道案内や
駅馬の返却を担当したそうだ。

1000年以上も前に
そのような交通インフラが存在した事に驚いた。
道幅も10メートルあり、真っ直ぐな道だったが、
律令制の崩壊と共に官道は衰退した。

道路の質に関しては
明らかに古代より中世の方が劣化している。
これだけで、古代は中世より優れていたと思わないが
指標によっては古代人の方が現代人より
優れていたり、幸福だったことも多くありそうだ。

人類の歴史は一直線に進歩するとは限らない。
退行する指標も数多くあるのだ。
古いものが全て素晴らしいものでもないし
新しいものが全て悪いものでもない。
逆もまたそうである。

人間の価値観とは相対的なものだ。
しかし、相対性の不安の中に
何か安心立命の境地のようなものを
私たちは一人一人、それぞれの人生の中で
見出ださなければならないのではないか?

宗教とか信仰には
本来はそんな役割があると思う。
しかし、神の御利益を競い合い
悟りの境地まで競い合うのだから
人間は始末に終えない。

駅長驚くことなかれ
一栄一落、これ春秋

菅原道真が太宰府に左遷された時に
旧知の明石の駅長に送った漢詩だという。

一栄一落。
歴史とは所詮そんなものかも知れない。




荀子 勧学篇の言葉より

荀子の勧学篇の言葉です。

きざ(金へんに契)んで之を舎(お)けば朽木も折れず、
きざ(金へんに契)んで舎(お)かざれば金石も鏤(ちりば)む可し。

意味は刃物で何かを切ろうとして、途中で切ることを止めてしまえば、腐った木さえ切れない。
しかし、刻むことを続けていれば、硬い金石を彫ることも出来るのだ。

ハッとさせられる言葉です。
記事にしたいことがあまりまとまっていないので
この言葉の紹介で今日はご勘弁ください。

ちなみに私のように今得た知識を得意気に
人に開陳することを
道聴塗説と言います。
また、耳から入り、すぐに口から出ていく事を
口耳の学と言うそうです。

荀子という方は、誤解されているかも知れないと
勧学篇を視写していて思います。
韓非子や李斯の師匠とは思えない生真面目さを感じます。

性悪説は
実践的な学問、経世済民の理想をいかにして
具現化するか熟慮した上での主張なのだと感じます。

荀子について詳しく解説しておられる方のサイトを読みました。

「新読荀子」というサイトで
河南殷人さんという方が荀子全篇を
口語訳されています。
大変分かりやすく内容が充実しておりますので
興味のある方は是非ご覧下さい。

私は読むにも漢文の知識が乏しいので一苦労です。
そこで全篇書写する事にしました。

やりきらないと朽木も折れず
口耳の学徒に留まってしまう。
しかし、いつになったら苦痛を感じず
難しい本が読めるようになるんでしょうね?

今書いているのはノートです。

学思篇にしては
学びも思いも深まっておらず
ただただ事典の受け売りです。
また、逍遙篇も
仕事もしてないし、結婚もしていないので
深い人間の洞察など書けません。

だからほとんど学習ノート、
絵で言えば習作です。
しかし、時事問題について
私の足りない頭であれこれ考えるより
少しでも学んだ方が良いと思うようになりました。

私は今の政権に批判的ですが、
決して一票を投じなければよいわけで
次世代のオルタナティブになるべく
研鑽を積む方が建設的なように
思うようになりました。

そうすれば、オルタナティブに成り得なくても
生き残る事が出来るでしょう。

私は健全な保守とは
趣・情緒に価値を見出だす事にあると考えます。
経済的な合理性だけで物事の全てを決めるのではなく
一人一人の人間の尊厳や感情に
配慮するのが本物の保守です。

その為には伝統的なものも
時代に合わせて変えていく必要がある。
そして変えてはならないものを問い続ける。

後漢の儒学者の鄭玄(じょうげん)は易経から
森羅万象を貫く3つの原則を見いだしました。

易簡(物事の変化の法則は単純なものである)
変易(物事には絶え間なく変化するものがある)
不易(物事には全く変化しないものもある)

これら3つについて考察を深めていきたいと思っています。

日本が移民を受け入れるならば、国民の義務規定を変えなければならないと思う

現在、憲法では
納税、勤労、教育を受けさせる義務がきていされていますが、私はこれに
国防の義務。
国家への忠誠(憲法を遵守する義務といってもよい)。
も加えるべきだと思います。

なぜならば、日本人のみの単一的文化を営んできた時代は殊更日本人とは何か?
法的規定をする必要がなかったのに対して、
新に移民を受け入れるとなれば、ニューカマーに対して日本人を相対的に規定する必要があるからです。

レイシズムに見えますが、
帰化要項をきちんと整備しないと
日本は移民によって社会が変質してしまいます。
日本人にも悪党と善人がいるように
諸外国の人々も悪党と善人がいます。

だから、私は在日朝鮮人・韓国人の人々をモデルケースたとして在日外国人基本法を制定すべきだと思います。
そして在日アメリカ人特別法、在日イギリス人特別法と
国別に特別法を設けて国際情勢に合わせて条文を追加・削除出来るようにするのです。

在日外国人という存在を法的に明確化しようとすると
日本人も同様に法的に明確化しなければなりません。
帰化する事で日本人の有する全ての権利を獲得出来るようにするわけですが、
ある特定の意図、スパイ行為や犯罪行為を目的に
日本に帰化しようとするケースが考えられます。

これに対して現憲法では対応できないと思います。

憲法への忠誠と国防の義務を
増やし、
外国人が帰化する際に宣誓してもらう必要があると思います。

移民国家アメリカは国民の義務規定は内容ですが
市民権を得る際に宣誓するようです。

アベ三選は自由民主党の「終わりの始まり」

アベ総理は問題山積の国会を乗り切り、
総裁選で三選を果たすべく、
国政には目もくれず、党内政治に勤しんでいます。

7月5日
赤坂自民亭という懇親会に初出席
7月6日
首相動静に乗らない公邸での派閥無所属議員との極秘集会。

カジノを含む総合型リゾート推進法案や
党利党略の参議院議席6増決定
裁量労働制を小さく生んで大きく育てる働かせ方改革。。。

西日本豪雨災害で甚大な被害が出ているにも関わらず
復旧復興の為の補正予算を組む事もなく、
自己都合で通したいものは通し、
臭いものには蓋。
そして、総裁選は三選は確実です。

アベシにとっては「我が世の春」です。
昨年「安倍内閣は年内に終わるや否や」を
易占で占いましたが
豊が遯に之く卦を得ました。

雷火豊は絶頂の極みです。
天山遯は逃げるという意味があります。
アベシは見事に昨年中は逃げおおせた訳ですが、
果たして今年はどうでしょうか?

モリカケ疑惑に対するアベシの対応は
アベシの政治家としての資質はおろか
人格・品格さえ疑わせるようなものでした。
あくまで私自身の印象ですが
アベシが擬態を使えるような志の高い人物だとは
思えなくなりました。

モリカケ疑惑が巷間を騒がすようになってから、
自民党の雰囲気は変わりました。
批判に対して物凄くセンシティブになっています。

徹底したブーメラン演出作戦。
政権批判者の「政権批判の内容」に類した行為を
批判者自身がかつてやっていたことを掘り返して
「どっちもどっち」と世間に思わせる世論工作。
石破茂氏などの冷遇・批判・誹謗中傷
不都合な真実は徹底的に隠蔽。
さらには改竄(「改竄」も「書き換え」と強弁する)

私にはアベシやアベジミントウの一強政治は
嘘、嘘、嘘で塗りかためた砂上の楼閣にしか見えません。

だから、三選後にアベシは自らの嘘に苦しむ事になるでしょう。
しかし、私はアベシの人柄すら信用できなくなりました。

まともな責任感のある大人なら、嘘にも苦しむでしょうが、三選後も嘘に苦しむどころか嘘に嘘を重ねて
任期を大過なく過ごされる可能性が高い。

すると、貧乏くじを引かされるのは
アベシに重用された人々です。
旧悪が暴露され辱しめられるでしょう。
今回アベシは恩賞の約束をしているようですが

盗人から財貨を恵んでもらうようなものです。
正当な財物なら開運招福にもつながるでしょうが、
盗品を有り難がって貰っていたら
大なり小なり災いはいずれその人にも及びます。

しかし、最近のジミントウの人々は目の前しか見られないので、恐らく盗人の財貨を有り難く山分けするのでしょう。

するとそれはジミントウの「終わりの始まり」になります。
アベシは今後も嘘をつきまくる。
共犯関係がズブズブになった政府与党は
彼の嘘に振り回され、政策はますます支離滅裂なものになるでしょう。

そんな政府与党を国民は信頼しないし、
仮に信頼するような国民なら日本国事態の
「終わりの始まり」になってしまいます。




太政官(だいじょうかん)の四等官 他

太政官(だいじょうかん)は日本の律令制度における
国家の最高機関である。
明治維新の太政官は(だじょうかん)とつまって読むようだ。

天武朝に納言、大弁官の職名が見える。
飛鳥清御原令では納言は大納言、中納言、少納言に分割され、大弁官は左右、大中小の6つに分割された。
大宝令で太政官は八省を統轄すると定められる。

具体的には
事務部門の左弁官局と右弁官局がそれぞれ四省を
統轄した。

左弁官局には
中務省
式部省
治部省
民部省
右弁官局には
兵部省
刑部省
大蔵省
宮内省
が属した

他に事務部門として少納言局がある。


太政官は唐名で尚書省と呼ばれたが、
少納言局は門下省的な性格を有している。
巡察使と呼ばれ地方官を監察する臨時監察官も
太政官に属した。


これら事務部門の上に大臣・大納言・中納言・参議からなる合議体である議政官(学術用語)がある。

四等官である
長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)
は太政官では以下のように割り当てられる。

○長官(かみ)
太政大臣
「則闕の官」(則闕(そっけつ)すなわち欠くの意)と言い適任者がいなければ空位である。

左大臣
事実上の最高責任者

右大臣
左大臣の補佐

内大臣
令外の官で内臣(うちつおみ)の官職の後進であるとされるが、職掌は不定で任じられる人により違ったようだ。

○次官(すけ)
大納言

中納言
大宝令では一時廃止。4年後令外の官として復活。

参議
令外の官

以上の官職の者が朝政に参画できた。

○判官(じょう)
左大弁 左中弁 左少弁
左弁官局を司る。

右大弁 右中弁 右少弁
右弁官局を司る。

少納言
少納言局を司る。

主典(さかん)
左大史 左少史
左弁官局に属し事務を行う。
右大史 右少史
右弁官局に属し事務を行う。
大外記 少外記
少納言局に属し事務を行う。

※天皇の命令、すなわち詔勅について調べたところ
わからない事が多かったので太政官を調べました。
太政官という官庁が律令制下にあったとは
恥ずかしながら知りませんでした。

天皇御璽を内印、太政官印を外印と称したり
天皇と皇族の財産などprivateなものには
内の字を頭につけ、
官庁や国の財産などpublicなものには
外の字や大の字を頭につけて使っているようです。

前者は内匠、内蔵、内舎人、内膳、内記などです。
後者は外記、大膳、大舎人などでしょうか。



古文書の種類 未了

(分類はWikipedia 古文書項参照した)


◎公式様文書(くしきようもんじょ)

養老令の公式令に定められた書式によって
作成発給された文書。
楷書(隋唐代の公文書書体、秦漢代は隷書を用いた)
官司の印判(太政官印)および官人自らの位署があることが特徴。

21(飛駅式を上式、下式に分ければ22)の書式がある。


詔書
天皇の命令。中務省から発給される。
一番手続きが難しい。
臨時の大事に発せられる。
国全体、官僚全体に対する命令は詔。


勅旨・勅書
天皇の命令。中務省から発給される。
通常の小事に用いられるとされる。
特定の人、事に対する命令。




上位の役所から下位の役所に発給される。


ほぼ同格の役所間のやりとり


上下関係がはっきりしない役所間の文書
検非違使庁など令外の官が発給する文書様式

解(げ)
下位の役所から上位の役所へ向けて出される文書。


◎公家様文書

宣旨
簡略化した勅命文書。勅書の草案が公文書化した。
中務省に上げる前段階で公式発給された文書。

官宣旨
弁官が署名して発給される勅命文書。
宣旨より簡略化している。

庁宣
在京の国司が任国に対して発給する文書
※律令初期は国司に任ぜられると、その者は任地に赴いたが、平安中期あたりから国司本人は京都にいて代理人(目代)を派遣する国司の遙任が一般化した。

綸旨
弁官や蔵人が天皇の意思を受けて出す文書。

院宣
院(上皇)の意を受けて近臣が発給する文書。

令旨
親王、内親王、女院の意を受けて近臣が発給する命令書。
※以仁王の令旨が有名だが以仁王本人は親王ではないので厳密には令旨という言葉を用いるのは不適切だが、
全国の源氏の決起を促すために多少箔をつける意図があったかも知れない。

御教書
位階が三位以上の人の意を受けて近臣が発給する
命令書。

綸旨、院宣、令旨、御教書のように
命令者の側近が発給する形式の命令書を
奉書という。

命令者が直に署判・署名を行ったものは
直札(じきさつ)、直状(じきじょう)、直書(じきしょ)
などと呼ばれる。
公家社会では直札が公文書として用いられるのは稀であったが、逆に武家社会では公文書の直札化が進んだ。

綸の字

綸(漢1104)
印章をつなぐ為の青い絹糸で組んだ
佩(お)びひも。

綸言
天子の言葉
天子の言葉は発せられた時は糸のごとく細いが
天下に達して行われるときは綸のように太くなるから

綸言汗の如し(漢書)
天子の言葉の言葉は一旦発せられたら
汗の如くその身に戻らない。
天子の言葉は取り消しがきかない。

綸巾
青い絹糸の組ひもで作った頭巾。
諸葛亮孔明が軍中で用いたので諸葛巾とも。
隠者や風流人が用いた。
(晋書謝万伝)

※謝万を少しく調べると謝安の弟。
謝安は桓温の簒奪を防ぎ、
ヒ水(ヒはさんずいに肥)の戦いで
前秦の符建に勝利し、(兵を率いたのは謝玄)
東晋王朝の存続に貢献した政治家。

謝安の字は安石で、
北宋の政治家、王安石の名はそれにあやかったか?

三省六部

三省六部(世64)(Wikipedia)
中書省
長官は中書令
皇帝の詔勅を起草する(曹魏~)

門下省
長官は門下侍中
天子の詔勅と臣下の上奏を審議する。
詔勅を差し戻す(封駁)権限があったので
権門貴族の牙城となった。

尚書省
長官は 右僕射・左僕射
(元々は尚書令だが唐代は任命されなかった)
政務の執行機関として六部を管轄。

吏部 文官の任免を統括
戸部 戸籍、財政、産業分野を所掌する
礼部 典礼、祭祀、文教、外交を担当
兵部 軍事、兵籍を管轄する
刑部 司法、刑獄、訴訟などを担当する
工部 土木、建設、製造を所掌する

御史台 官吏の監察機関

詔勅律令格式

詔(日34)(漢1305)(Wikipedia)
天子の命令。
秦の始皇帝が初めて用いたといわれる。
字義は訓戒、教え、諭す等。
日本の律令では詔は
臨時の大事を命ずる際に詔書が発せられると
定義されている。

勅(日34)(漢185)(Wikipedia)
天子の命令。
詔は臨時の大事の命であるのに対し、
勅は通常の小事の命に発せられるものとされた。
しかし、詔・勅の区別は甚だ曖昧である。
字義は勅もまた、教え諭すとの意味がある。
勅が天子の命をあらわすようになったのは
シナの南北朝時代以降の事であるそうだ。

詔書・勅書は漢文で記された。
これに対して和文で記された天皇の命令書は
宣命(せんみょう)という。
これは宣命体という書式で書かれるが、
漢語に送り仮名として万葉仮名の漢字を小さく書いたもので神職さんが奏上する祝詞は宣命体で書かれているそうだ。

詔勅・宣命ともに手続きが煩些であったので
嵯峨天皇の御世である弘仁年間に蔵人所(天皇の秘書官)が設置されると本来、詔勅・宣命の草案メモであったものが様式化して宣旨になり、さらに簡略化して
綸旨(りんじ)が成立した。

「綸言(天子の言葉)の旨」という意味である。
綸旨は蔵人が「綸言如此」と書き添えて直接発給する
文書だったので偽造が簡単だった。
建武の新政を揶揄した二条河原落書にも偽綸旨が出てくる。


律(日34)(漢496)(Wikipedia)
字義を調べたが、古代の音律の1つであるようだ。
(呂も同じで雅楽などで使われる
「ろれつがまわらない」の「ろれつ」は「呂律」が訛ったもの。)
法が法令制度全体をさして広く使われるのに対し、律は狭く条文や規則をさす。

律とは刑法の事をさす。

令(日34)(漢70)(Wikipedia)
字義は上部「集め合わせる」+下部「割り符」
「リョウ」と読む。
(漢字の音読みは伝来時期により、漢音、呉音、唐音などがあり、非情に煩わしい。後日調べたい)

令は行政法、民放にあたる。

格(日53)(Wikipedia)
「キャク」とよむ。
字義は法令の意とは遠かったので割愛。
日本の律令制での位置付けは、
①律令条文の補足・改正
②官吏の公務及びその取扱規則
詔勅や太政官符などの形で出された。

唐の格は官吏の事務規則である。

式(日53)(Wikipedia)
日本では律・令・格の施行細則。
唐では役所の文書規則。


律令は西晋の時代から整備され、
隋唐代に格式が加わった。
この法体系は東アジアの
日本、朝鮮半島諸国、渤海、大越(ヴェトナム)などに
伝わった。

平忠度の歌

さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな

平忠度

さざなみは志賀の枕詞
志賀の都は天智天皇の時に作られた
近江大津宮の事で
壬申の乱の時に大友皇子が敗れたため
焼亡して荒廃しました。

しかしながら国破れて山河あり
長良山に咲く山桜は
往時と変わらず美しく咲いている。

むかし「ながら」は長良山とかけている。
長良山は三井寺の後ろにある山だそうで、
(地図で見ると恐らく三井寺の南側)

世の中をいとひがてらに来しかども
憂き身ながらの山にぞありける

という歌もあります。
口語訳が見つからなかったので我流で訳せば

世の中が嫌になり都から三井寺に参詣に来て、
そのまま出家して山に籠ろうかとも思ったけれど
そんな我が身でも長良の山は寂しく心細く感じられる。
やっぱり俗世が恋しいなあ。。。

と、そんな感じだと私は思います。

平忠度は平家の公達でしたが、
源義仲に攻められて都落ちする事になります。
その時にわざわざ引き返して
歌の師である藤原俊成(藤原定家の父)の家に立ち寄り
勅撰和歌集を編纂する勅があったら
この中から一首でも取り上げて頂けたら幸いと
鎧の中から自らの歌を綴った一巻を取り出して
俊成に託した逸話が平家物語にあります。

その逸話や大友皇子の無念を思えば
胸に迫るものがあります。

日本で歴史書で明らかになっている
最初の権力者は藤原氏の摂関政治だと
思っていましたが、
天武朝の皇親政治も興味深く、
また、藤原四家の系図をまとめるにしても

律令政治の確立や
文武・聖武天皇外戚 藤原氏 対 天武天皇皇親勢力
神亀6年(729年) 長屋王の変
天平9年(737年) 天然痘大流行(藤原四兄弟病死)
橘諸兄の台頭~橘奈良麻呂の乱
藤原仲麻呂の台頭~恵美押勝の乱
道鏡の台頭と称徳天皇の死
のあたりまでまとめないと
私自身が頭に入りません。

ことのほか遠回りですが、
やりきらないと無意味だし、
やりきればそれなりの成果があり
自信がつくと思います。

平賀源内、松尾伴内さんなどの
源内、伴内の名前は
源氏の内舎人(うどねり)
大伴氏の内舎人の意味である。
(他に平内、喜内など)

あるいは金吾(執金吾)は衛門府の唐風呼称で
小早川秀秋が金吾中納言と呼ばれたのは
権中納言兼左衛門督に任じられたからである。

などなど、目から鱗の事が多いです。

終日物思いに耽るより、
寸暇を惜しんで学問する方が良いと
荀子は言っていますが本当ですね。


山岳戦の重要性とアイディア

日本は山がちですから、
山岳戦に備えることは有意義だと思います。
また、シナ大陸の肝は四川、山西、陝西あたりです。
この地域で活躍できる部隊を育成すべきだと思います。

イージスアショアを配備するより、
山岳戦に強い部隊を中長期的に育成する方が良いと思います。

日本には修験道があり、
修験者は大和・紀伊などを拠点にして
全国の豪族の諜報活動を請け負いました。
彼らには街道とは別の山のネットワークがあったはずです。

また伊賀・甲賀の忍者衆は杣人でもありました。
普段の樵仕事で超人的な身体能力を鍛えていたのです。

今、里山は荒れるに任せています。
外来の害獣による畑の被害も多い。
それに林業も衰退したり、
あるいは杉などにかわり保水力の高い
広葉樹の植樹などが急務になるでしょう。

そこで、自衛隊に山岳戦部隊を作り
平時は林業と狩猟を訓練がてらしてもらうのです。
もしかしたら、平地でも精強さを発揮できるかも知れません。

退官してもそのまま林業や猟師を続けてもらう。

世界を見ても地域の境目は高い山が
多いです。
アフガンとかチベットなどです。
日本にはそこまでの高山はありませんが
訓練の工夫をして対応できるようになれば
災害派遣、治安維持活動に引っ張りだこになるでしょう。

マティス国防長官の言葉より

「礼儀正しく、プロであれ。だが、会う人は誰でも殺す計画を立てておけ」

国防軍事、外交折衝の関係者は
このくらいの覚悟が必要でしょう。
攻めてこないだろうと高をくくるのではなく、
自らは規を越えないが、いつも不意打ちへの備えをしておく。

「シナ大陸への攻め方」という記事が検索上位にきますが、中華人民共和国との海洋利権を争うときに、
守るだけでは対策に限界があります。
また、戦いとは外交から諜報、経済まで様々なジャンルの戦いがあります。

日本ではフェアプレー前提で何事も考えますが、
ラフプレーが横行する世界なのです。

ところが、私はラフプレーを行う輩は大損していると
思います。
反則行為や汚い行いにより敗れた者の恨み反感に
半永久的に苦しまねばならないからです。

兵法も正攻法でなければなりません。
正攻法の究極は「不戦屈敵」
しかも、争わず合意形成すればなおよしです。

日本人がそうは思わなくても
諸国民の中で「孫子」の読者は少なからずいるわけです。日本人の意識が変わらなければグローバル競争にも
勝てません。

もともと日本はもののふの国。
武士道の国です。
弱きを助け、強きにおもねらず
正道を歩む。

武士道には禅宗から仏教的な理念も取り込んでいます。
江戸末期には名門の武士は多くは堕落しましたが、
講談や歌舞伎などで武士の理想像は
庶民レベルで広まっていて
庶民から武士になった人々が
明治の近代化を支えました。

リアリズムとフェアプレーの伝統が
日本にはあるのです。
それを絶やしてはなりません。

スピノザの神の時空

眼鏡屋の角も愛しもスピノザの神の時空に在るを思わば

【推論】なぜ「やまと」に「大和(だいわ)」をあてたのか

「大和」と書いて「やまと」と読ませるように
なったのは元明天皇の御世のことだそうです。

国名を好字の2文字で表すように定められたので、
これまでは「大倭」と書いて「やまと」と読んでいたものを倭を和に変えたことから「大和」という言葉が生まれた。

私はそれに加えて陰陽道、道教的な世界観の影響があると思います。
道教的な価値観と共に受容された「易経」の影響や
五行説の影響が古代の日本に随所に感じられるからです。

易経には64卦ありますが、乾卦は第一番目の卦にあたり
第二番目の坤卦と共に特別な卦になっています。
(乾は天を象徴し、坤は地を象徴する)

この乾卦の彖伝に
大哉乾元、万物資始。乃統天。雲行雨施、品物流形。
大明終始、六位時成。時乗六竜、以御天。
乾道変化、各正性命、保合大和、乃利貞。
首出庶物、万国咸寧。

口語訳
偉大なる乾の創造力、その力を受けて万物が始まる。

乾は天道を統御する根元である。雲は大空に流れ、雨は大地を潤す。この天の力を受けて、万物は様々な形を表して天地の間をうめつくすのだ。

乾の力は、何者にも妨げられずゆきわたり伸びゆく。

乾卦は、潜伏から飛躍に至る万物の全過程を明らかにする。六爻によってそれぞれの時点を示し、その時に応じて六頭の竜に乗り、天道をわがものとしていくのである。

乾の道は時に応じて変化して万物の天性を開花させ、天地の間の大いなる調和を保つ。

乾の動きは順調にして永遠である。

私はこの彖伝の一節が「大和」の国号の由来ではないかと思います。乾=天の道の力が雲を起こし雨を降らせ万物の天性を開花させる。天の力が大いなる調和を保つ。
天は君主の象徴であり(地の臣下の象徴に対応する)、
その天の力が大和をもたらし、永久不変である。

それを願う意味で「やまと」に「大和」の二字をあてたのではないか?

天地開闢の時に一番最初に表れた神々
国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊
は「乾道独化(乾道独り化す)」と記されています。

乾道、純男という語に陰陽思想の影響を感じます。

また聖徳太子の冠位十二階も五行相生説に因む配列だと感じます。

大徳 紫
小徳 薄紫
大仁 青
小仁 薄青
大礼 赤
小礼 薄赤
大信 黄
小信 薄黄
大義 白
小義 薄白
大智 黒
小智 薄黒

これが十二階で儒教の五常とその上にある徳の6つを
大小に分けて12の冠位にしているのですが、
徳に続く、五常の配列が
一般的な仁義礼智信ではなく、
仁礼信義智になっています。

四柱推命を知っている方なら、
五行相生の順番だとピンとくるのではないでしょうか?
仁は木で青
礼は火で赤
信は土で黄
義は金で白
智は水で黒
です。

(季節を五行に当てはめると青春、朱夏、白秋、玄冬
季節の間は土用を挟みます。)

古代日本人は早くから道家の思想を取り込んでいたと
思います。
それは、現代人の感覚としては先端科学のようなものかもしれません。
唐心を排するのは私はらっきょうや玉ねぎの皮を剥くようなものだと思うので好きではありません。
むしろ、よく消化し、分析分類して収まるところに収める方がよいと思います。

私が願うところは、
乾卦の彖伝の中にある
保合大和、万国咸寧の二節です。

大和を保合することを通して
万国(世界中全ての国々)をことごとく安寧にする。

大和とは日本一国の事でもあるし、
所属する共同体の調和でもあるし、
世界全体の大いなる調和でもある。

その為に乾乾兀兀と努力していきたいと思います。


(平成30年7月22日追記)
天武天皇について調べましたら、
天皇ご自身が天文・遁甲に通じていたと書記に記されています。和風諡号にも天渟中原瀛真人(アメノヌナハラオキノマヒト)とありますが、東海三神山の瀛州と道教の神仙の称号である真人が使われています。

道教に関心を示し、神道を整備し、仏教を保護し
(Wikipedia)
「天皇」の称号と「日本」の国号を初めて使用した。
また、日本の土着の伝統文化の保全・整備に努めたことが知られていて日本の原型を作った偉大な天皇の一人であると言えそうです。

統治政策はカリスマ的で強権的な面もあり、
全面的に美化は出来ませんが、
多彩な才覚で本当に日本の礎を築いた。

そして、易経を理念の原点とする陰陽道に自ら通暁し、
朝廷に陰陽寮を初めて設置した。

大和が乾卦彖伝からとったかは、
私の勝手な推論ですが、
古代日本に道教の強い影響があった事は間違いないようです。


藤原氏の水源 未了

藤原氏は藤原鎌足を祖とする神別氏族。

※神別とは新撰姓氏録(嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族の名鑑で弘仁6年(815年)に成立した)の中の
氏族の分類であり、他に皇別(歴代天皇から分かれた氏族)諸蕃(渡来人の子孫)の2種がある。
神別(天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)の子孫)は、
更に天孫(ニニギノミコトから分かれた子孫)、天神(ニニギノミコトに付き従った神々の子孫)、地祇(天孫降臨より以前に土着していた神々の子孫)に分けられる。

祖先神は天児屋命(アメノコヤネノミコト)
春日権現、春日大明神とも称する。

祖とされる藤原鎌足は
中臣氏の出自と伝えられ、
初名は中臣鎌子。
後に鎌足と改めた。

中臣氏は忌部氏と並び宮中祭祀を司ってきた。
忌部氏は早くに中央での勢力を失ったが、
中臣氏嫡流は大中臣連として宮中祭祀に長く重きをなし
江戸時代には藤波氏を称して堂上公家の地位に列するに至る。

鎌足の父は御食子(みけこ)で4代前の中臣鎌子は
物部尾輿と共に仏教の受容に反対している。

大化の改新以来、天智天皇に仕えて功を立て
その死に際し
藤原朝臣の姓と大織冠の位を賜る。

ところが、鎌足の子である不比等はしばらく
歴史の表舞台に顔を出さない。
壬申の乱があったことが関係するのだろうか?

壬申の乱(672年)は天智天皇崩御後に
天智天皇の子である大友皇子と
天智天皇の弟である大海人皇子が
皇位を争って起こった戦乱であり、
大海人皇子が勝利してして天武天皇になる。

天武天皇の13年(684年)に制定した八色の姓の
中には朝臣52氏が名を列ねるが、藤原朝臣はないのである。

藤原不比等とその子達が
藤原朝臣として歴史に登場するのは
不比等の一女である藤原宮子が
文武天皇の夫人になってからのようだ。

天智天皇から聖武天皇の頃の
藤原鎌足とその子不比等の事跡は謎めいている。
鎌足=百済王子扶余豊璋説(関裕二氏)
不比等=天智天皇御落胤説(大鏡、公卿補任等)
もある。

仮に不比等が天智天皇の御落胤であるとすると、
父鎌足の釆女安見児を得た喜びを歌った一首が
意味深に思えてくる。

われはもや安見児得たり皆人の得難にすとふ安見児得たり

帝に仕える釆女に恋をする事など許されないが、
天智天皇の覚えがよほどめでたかったからだろうか?
(この釆女の安見児が不比等の母であるかどうかはわからない。)
しかし、このような歌が後世に伝わるのは故あっての事のように思われてならない。


(参考文献 Wikipedia)

(平成30年7月20日追記)
藤原不比等の生母としては釆女の安見児ではなく、
「車持国子君の女、与志古娘」
あるいは鏡王女(額田王の姉とも)
いわれ、天智天皇から下賜されたという。
しかし、いくら天智天皇の寵が厚かったとはいえ
天智天皇の懐妊中の夫人を下賜するだろうか?

鏡王女と鎌足の歌のやり取りは
恋愛の成就というよりは、鏡王女が鎌足に断りを入れているように私には思える。

御落胤は生母の家格も重要なのだろう。
とにかく、藤原不比等は天智天皇の御落胤だと
信じられてきたことは確かである。

(平成30年7月21日追記)

さて、天智天皇の死後、壬申の乱(672年)に勝利して即位したのは大海人皇子(天武天皇)だった。
大海人皇子は乱の翌年(673年)飛鳥清御原宮で即位する。

天武朝とそれに続く持統朝では
皇親政治といわれる。

皇親政治(日31左)
天武・持統朝から奈良時代前半にかけて存在した、
天皇と皇族(皇親)を中心とした政治形態。
特に天武天皇は大臣を置かず皇后・皇子とともに
政治を行った(後略)

この頃、藤原不比等は14歳で壬申の乱では父鎌足の従兄弟である近江朝廷の右大臣中臣金が逃亡中に近江国で討たれており、生命の危険もあったと思われる。

不比等の官歴が明らかになるのは持統称制2年(688年)で
直広肆(冠位四十八階の16番目)判事の叙任されている。31歳だった。
その後年月は不明だが直広弐(四十八階の12番目)に昇進している。

だが、不比等にとっても、その後の藤原氏にとっても
大きかったのは文武天皇元年(697年)娘宮子を入内させた
事だろう。不比等39歳の時である。

この後、不比等は中納言、
大宝元年(701年)には正三位大納言(43歳)
大宝4年(704年)には従二位(47歳)
和銅元年(708年)には正二位 右大臣(51歳)

と一気に朝廷の実力者にのし上がった。
その後、養老4年に63歳で薨去するまで
政権の中枢で、大宝律令や養老律令の制定や
平城京への遷都などに辣腕を振るった。

この藤原不比等一代の栄達に貢献したのは、
文武天皇に嫁し、大宝元年(701年)に首皇子(後の聖武天皇)を産んだ娘 藤原宮子と元明天皇に女官として仕えたといわれる不比等の後妻・県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)の存在が大きかったと言われる。

県犬養三千代は奈良時代の重要人物である。
はじめは敏達天皇の三世(四世とも)の後裔の
美努(みぬ)王(?~和銅元年(708年))に嫁ぎ、
葛城王、佐為王、牟漏女王を生む。
この葛城王が後の橘諸兄である。

また、美努王と離別後、藤原不比等の後妻となり
光明子と多比能を生んだ。

不比等は文武天皇の外戚、皇太子首皇子の外祖父として
皇親中心の政治構図を変化させていった。


さて、皇親勢力の代表的な人物としては
天武天皇の長子で壬申の乱でも活躍した
武市皇子(白雉5年(654年)~持統10年(696年))
やその子である
長屋王(天武5年(676年)~神亀6年(729年))
大宝律令の編纂責任者 刑部親王、
日本書紀の編纂責任者 舎人親王
などが有名だ。

藤原不比等と長屋王は当初は良好な関係だったようだが、不比等の子達すなわち
武智麻呂(藤原南家の祖)
房前(藤原北家の祖、平安時代栄える藤原氏の血脈)
宇合(藤原式家の祖)
麻呂(藤原京家の祖)
らとは皇嗣を巡る争い
(藤原氏としては宮子の子である聖武天皇の御子を
次の天皇にしたいが、長屋王の子女も皇嗣になり得た)
が顕在化し、神亀6年2月の長屋王の変につながるのである。

荀子の鋭角的な修辞の素晴らしさ

荀子先生は美しい文章を書かれています。

その文章通りに誠実に実践すれば
私自身が変な方向には行かないと確信しました。

その主張もさることながら
修辞の美しさ、鋭さは
孔子、孟子に劣らず
漢文の読み下しにしてもきれいです。


君子の学は以てその身を美にし、
小人の学は以て禽犢と為すのみ。

君子の学問は自分自身を人間として立派なものに仕上げるが、小人の学問は、己の知識を人に誇示し、
他人に自分を売り込む手段に過ぎない。

礼をたっとべば、未だ明らかならずといえども法士なり。
礼をたっとばざれば、察辯なりといえども散儒なり。

問うにコ(木へんに苦)なる者には告ぐる事なかれ。
告ぐる事コなる者には問うことなかれ。

技術的に真似る。
仏作って魂入れず的な実践では
秦の始皇帝の宰相の李斯のように
悲惨な末路が待っています。
(荀子は権謀を重んじて仁義を軽んずる李斯の
秦での栄達を喜ばなかった。)

李斯は趙高、胡亥と謀って太子の夫蘇を殺し
胡亥を二世皇帝に即位させますが、
奸詐に長けた趙高に捕らえられて、
散々辱しめを受けた上で殺されます。

荀子の目指した道はあくまで
李斯や韓非子とは別のものだったのかも知れません。
しばしば詩経などの古典を引用し、聖人に言及しているところから私にはそのように思われます。

君子曰く
「学は以て已むべからず」
(荀子 冒頭の言葉より)

屁理屈への対策

屁理屈はスルーするか、
いっぱい屁理屈をしゃべらせて
突っ込みを入れて笑うのが効果的だそうです。

泳がせて泳がせて、
イチイチ突っ込みを入れる。
時間が無いときは屁理屈自体無視する。

戦国時代(1493~1573) 未了

戦国時代は西暦1493年~1573年までというのが、
近年の有力な説のようです。

明応2年(1493年)4月に室町幕府で政変が起こります。
管領の細川政元が将軍10代将軍足利義材(よしき)を廃し
足利義澄(当時義遐(よしとお)と名乗る)を11代将軍として擁立したのです。

この一件をもって戦国時代の始まりとするようです。
この時期の元号を列記すれば

明応年間(1492~1501年)10年
文亀年間(1501~1504年)4年
永正年間(1505~1521年)18年
大永年間(1521~1528年)8年
享禄年間(1528~1532年)5年
天文年間(1533~1555年)24年
弘治年間(1555~1558年)4年
永禄年間(1558~1570年)13年
元亀年間(1570~1573年)4年

となります。
また、織豊時代も含めると

天正年間(1573~1593)20年
文禄年間(1593~1596)5年
慶長年間(1597~1615)20年
※慶長の次は元和(げんな)年間

も入るでしょう。

天皇では
第103代 後土御門天皇(1464~1500)寛正4~明応9
第104代 後柏原天皇(1500~1526)明応9~大永6
第105代 後奈良天皇(1526~1557)大永6~弘治3
第106代 正親町天皇(1557~1586)弘治3~天正14

第107代 後陽成天皇(1586~1611)天正14~慶長16
第108代 後水尾天皇(1611~1629)慶長16~寛永6

と4人から5人の帝の御代にあたります。

戦国時代の終わりの出来事としては
織田信長が自ら擁立した15代将軍足利義昭を
追放し、室町幕府が滅亡した事です。

西暦1573年(元亀4年)7月の事でした。
直後の7月28日に改元あって天正年間が始まります。
義昭の追放と天正改元は織田政権が確立した象徴的出来事でした。

戦国時代初期の世界情勢ですが、
ポルトガル王国は西アフリカを南下する
探検航海を繰返していて
1488年(長享2年)にバルトロメオ・ディアスが
アフリカ南端の喜望峰に到達。
1498年(明応7年)にはヴァスコ・ダ・ガマが
インドのカリカットへの航海に成功します。
また、1500年(明応9年)にはカブラルがブラジルを発見しました。

1492年(延徳4年・明応元年)はイベリア半島にとって
エポックメイキングな出来事がありました。
イベリア半島の最後のイスラム王朝ナスル朝の都グラナダが陥落し、国土回復運動(レコンキスタ)が終了したのです。

アラゴン王フェルナンドは両シチリア王も兼ねていましたので海洋交易の利権に敏感であり、
アラゴンとカスティリャが合併して出来たイスパニア新王国の財源を確保するためにすぐさまインド航路開拓に乗り出します。

先年アフリカ回りでインド航路を開拓したライバルのポルトガルに対抗すべく、イスパニア王が目をつけたのが
ジェノヴァの商人コロンブスです。

彼は大西洋を西へ西へと進めば地球は丸いのでアジアに、到達出来ると考えていました。
コロンブスはグラナダ陥落と同年10月に
バハマ諸島を発見しヨーロッパ人のアメリカ大陸進出の
先駆けになりました。

イングランドでは百年戦争(1338~1453)、ばら戦争(1455~1485)による国土の荒廃からようやく立ち直り、
ヘンリ7世によってチューダー朝の絶体王政が確立し始める時期です。

西アジアでは1507年にチムール帝国(1370~1507)が
遊牧民ウズベクの攻撃で滅亡します。
ティムール朝の一王族バーブルはその後アフガニスタンのカーブルに拠り1526年(大永6年)にムガール帝国(1526~1858)をインドに建国しました。

大航海時代が始まりつつあり、
1543年(天文12年)種子島に鉄砲が初めて伝来し、
武士の戦の仕方が大きく代わりました。

火縄銃(マッチロック式のマスケット銃)は
原型となるハンドキャノンが、13世紀の中国で初めて使われ、14世紀初期にアジアからヨーロッパにもたらされました。

15世紀初期のフス戦争(1419~1436)が初実戦と言われています。

鉄砲の起源が13世紀の中国であり、
ヨーロッパを迂回して1543年に日本に伝来するのですからえらく遠回りをしたものです。

もっとも蒙古襲来の際に元軍が「てつはう」という
火器を使用したと記録にあるので
1274年には既に、鎌倉武士達が鉄砲の原型に出会っていると言えるかも知れません。


(平成30年7月17日追記)
どうもポルトガルの種子島伝来前に、
明国から日本に銃の原型が伝わっていたようです。
火槍といい、応仁の乱頃には既に伝来していたとか。
ところが威力が弱くて使い物にならず、
武士には採用されませんでした。

種子島銃が短期に量産されたのは、
火槍に関する技術の蓄積があったからではないでしょうか?
鉄砲の一大生産地に自由都市堺がなったのは、
明との交易で火槍の知識があったかも知れません。

ちなみに銃の事を中国では槍と書くそうです。


荀子について(言葉や来歴など)

(平成30年8月13日追記)
荀子を気長に全編書写する事にしましたので、
荀子の言葉については稿を改めて記述します。

荀子は古代シナの戦国時代、趙の国(現在の中国山西省付近)の出身でしたが、
斉(現在の山東省ツーポー市)の国に遊学しました。
斉の都、臨シの城には稷門という門があって
その側に古代シナの一大アカデミーがありました。
「稷下の学」と呼ばれます。

兵法家の孫ピン、
陰陽家の鄒衍、
蘇秦、張儀の師である鬼谷子などが有名です。

荀子は名だたる学士達を束ねる祭酒になること三度あったと伝えられています。
相当の学識があったのだと思います。

文章を読んでいて博物学者的な好奇心のあった人ではないかと思いました。

干・越・夷・貊の子、生まれたるときは
すなわち声を同じくすれども、
長ずればすなわち俗を異にするは、
教えこれをして然らしむるなり。

(口語訳)
生まれた時は、南方江蘇省の異民族である干も
浙江省の異民族である越も、東方の異民族である夷も
中国東北地方ツングース系の異民族である貊も
生まれた時の「おぎゃあ」という産声は同じであるのに
成長すると言語、習慣、風俗が全く違ってしまうのは
その国の教育環境が人を変えてしまうからだ。

このような記述が多く見られます。
「稷下の学」に属する学士達の多彩さが
荀子の思索のバックボーンになっています。

荀子の実践的な姿勢は大変参考になります。
じっくり学びたい思想家になりました。
これでこの稿は締めたいと思います。
(追記以上)


(平成30年7月17日追記)
荀子(漢1202上、Wikipedia)
諱は況、尊称として荀卿、または孫卿とも称される。
三国志で有名な曹操の軍師荀イク、荀攸はその子孫とも
いわれる。

晩年に稷下の学士となり、さらにその後 戦国四君の一人
楚の春申君に仕えて蘭陵(現在の山東省臨沂(りんぎ)県)の令となった。天人分離説の立場から性悪説を唱えて
孟子を批判。
人の欲を制するのは規範としての礼であるとして
礼至上主義を説いた。
弟子に法家の祖となる韓非子、
晋の始皇帝の宰相となる李斯らがいる。
以上

蘭陵は山東省の南部にありますが、
山東省は斉の国のイメージが強かったので
楚の国の勢力下だったことは意外でした。
春秋の楚は湖南省中心に勢力を張っていましたが、
戦国時代には韓や秦の圧迫を受け長江や淮河の下流に
シフトしているようです。

前半世は未詳ながら趙の国の人らしいです。
荀姓の人は
山西省運城市(漢代河東郡が置かれた。関羽の出身地)
山西省新絳県(周代に荀という国があった)や
シュン(旬にオオザト)という国のあった山西省運城市臨猪県(荀姓の人はシュン侯の後裔と言われている。)
にゆかりがあり、
いずれも春秋時代には晋に属していた地域です。
三晋分裂後は魏が領有したようですが、
荀姓の一族は晋の時代を通じて趙の地域にも広がっていたのでしょう。




君子の徳目である礼について
これだけ分かりやすく書いている書もありません。

空気を読めない私には最適の書です。
道を学ぶ者には良き薬となり、
志を遂げんとする者には良き鞭ともなりましょう。
しかし、薬はいつ如何なる時も効くとは限らず
鞭は使うときを誤れば馬の機嫌を損ねます。

荀子の説はその表層をなぞって
チョウソ、王莽の如き輩を生み、
また、君子は環境により育つとすれば
真の平等感には遠いと思います。

荀子本人に赤心の誠があったのか、
それは荀子本人でなければ分かりません。
しかし、荀子の言を聞いて
その人間観察が的確であるだけに
一抹のあざとさを感じるのは私だけでしょうか?

荀子が諸国の王に重く用いられなかったのは
彼の人工的な美徳に信が置けなかったからではないでしょうか?

私は教育環境が整わない中で学ぼうとする人達に対して
下手をすれば君子になることを諦めさせる、
絶望感を与える恐れがある書だと思います。

人間は自発的に行動しないと長続きしません。
だから、その点ではその人の「本性の善の開花」を待つしかないのではないかと考えます。

逆に本性は悪であるからと
教育環境を整えて、礼を教え込んでも
本人の自主性が育たない限り、
その人は君子にはなれないでしょう。

そんなモヤモヤを抱えて読みました。
しかし耳に痛い指摘も多く、参考になります。

以下に抜粋して行きたいと思います。

高山に登らざれば天の高きことを知らず、
深谿(しんけい 深い谷)に臨まざれば地の厚きことを知らず、
先王の遺言を聞かざれば学問の大なることを知らざるなり。

実際に行動したり、学ばなければ
物事の難しさ奥深さはわからないということです。

君子の徳目を具体的に分かりやすく説いているために、
あざとさや偽善への誘惑、罠が待ち受けているような気になり少し憂鬱な気分になります。

こうすれば人に嫌がられるだろうから
君子はこうすべきである。
そのように説くと、人間は君子らしい行動を演じようとし、
君子の道、学問の道を究める方に向かわず、
名利栄達の為に君子然と振る舞うようになるのではないか?

何かモヤモヤが抜けません。

中国の古典7 荀子 戸川芳郎・他訳 学研
の本です。
戸川先生は解題でマルクス・エンゲルスやレーニンを
引用されていました。

全くマルクス主義に関して知識が乏しいので、
言葉を理解できずに荀子の真の価値を理解していないだけかもしれません。

将来的にはマルクスやニーチェの本に格闘出来るようになりたいものです。

(平成30年7月17日追記2)

感銘を受けた言葉の追記です。

問われずして告ぐる、これを傲(さしでぐちの意)と謂い、一を問われて二を告ぐる、これをサン(口へんに贊)
(いいすぎ)と謂う。傲・サンは非なり。
君子の学は響くが如し。

大変耳に痛い。






作史三長 才 学 識

唐代の史家 劉知幾が述べた歴史家に必要な
3つの資質だそうです。

武韋の禍の最中に史官になった劉知幾が見たものは
歴史記録を曲筆し、権力者にアユ追従するだけの
カネで地位を得た史官達でした。
彼は官を辞して「史通」という書物を書き上げます。

劉知幾は作史にあたり、
歴史家には
才 歴史を著述する才能
学 幅広い学問の知識
識 政治的な倫理性
が必要であると考えました。

私は三番目の政治的倫理性が重要であると思いました。
歴史家ならずとも
人間として説得力を持つ言葉を話すためには
作史三長 才・学・識の資質を磨く事は重要であると思います。


家にあらば

膝枕の話題のついでに久しぶりに和歌の記事を書こうとしたら膝枕ではなく草枕でした。
(危なく恥を書くところだった。)

家にあらば 妹(いも)が手まかむ 草枕 旅にこやせる
この旅人(たびと)あはれ

聖徳太子

家にあったら妻の手を枕にするだろうに
今はこうして草を枕に横たわっている(死んでしまっている)旅先で倒れてしまったこの旅人よ。。。ああ。

似たような歌で印象に残っている歌が

家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば
椎(しい)の葉に盛る

有馬皇子

謀反の嫌疑をかけられて紀伊の国に護送される際に詠んだ歌です。食器ではなく椎の葉っぱに飯を持って食べる
孝徳天皇の皇子であった有馬皇子には耐え難く、
また同時に不安な気持ちであったのでしょう。

この護送中に詠んだ歌に

磐代の 浜松が枝(え)を 引き結び 真幸くあらば また還り見む

磐代というと福島県を思い浮かべましたが、
和歌山県日高郡みなべ町 の 岩代地区の事だそうです。

結び松というらしく、古人は旅の無事や、何かの誓いを立てた時に松の小枝を結んだそうです。
有馬皇子はその後紀伊の国の藤白坂で絞首されました。

磐代の 岸の松が枝 結びけむ 人は帰りて また見けむかも

磐代の 野中に立てる結び松 情(こころ)も解けず 古(いにしへ)思ほゆ

詠者不詳(長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)が作者とされる)

持統天皇の紀伊行幸時に有馬皇子を偲んだ鎮魂歌のようです。持統天皇の父は天智天皇なので因縁めいたものを感じます。

(平成30年7月14日当日追記)
有馬皇子は斉明女帝や中大兄皇子らを紀伊の国(白浜温泉)に行幸させて、その留守中にクーデタを企てますが、
一味と思われていた蘇我赤兄(天智天皇の時代に左大臣にまでなっている)に裏切られ、逆にとらえられて
行幸中の中大兄皇子の詮議を受けるため紀伊の国に護送されました。

蘇我赤兄が有馬皇子をはめた事件、蘇我赤兄の背後に
中大兄皇子がいたのではないかと推察されます。
聡明で18歳という若さで亡くなったので悲劇性たっぷりです。

古代人の印象に残る悲劇だったのでしょう。

annoying うざい ~

だるい lazy に続き、ウザいです。

annoying が そのようです。
しかし、不安があります。
google クロムで検索 ○○ 英語と入力すると
結果の上位に翻訳の単語が表示されるのですが、

膝枕を英語で探した際に
knee bolster
膝頭の長枕
と出てきたのです。

ノート型パソコンの事を
外人はラップトップピーシーと言います。
lap-top pcです。
なんでノート型をlaptopと言うのか
無精して今まで知りませんでしたが、

lap(1026左)は座った状態の膝から太ももの部分です。
モニター、本体、キーボードのあるパソコンは
desktopと言われます「机の上」のパソコンで
laptopは「膝の上」のパソコンだと合点しました。

そこで膝枕ではどうだろうと
調べたら
knee bolsterです。
クロムの上に出てくる翻訳は
機械的じゃなかろうか?

膝枕は
sleep on one's lap
が自然なようです。

さて、前置きはこのくらいにしまして
annoyについて書いていきます。

annoy(75左) ォノーイ

三 annoys ズ
過・過分 annoyed ド
現分 annoying

他 1 悩ます、困らせる、むっとさせる。

He is always making fun of us and that really annoys me.

彼はいつも私たちを馬鹿にして、腹が立つったらありゃあしない。

making fun of A(fun 734)
Aをからかう、馬鹿にする

Does it annoy you when people comment on your
appearance?
容姿の事でとやかく言われるとうんざりしませんか?

people(1348) 人間、人々 (公文書固くpersons)

People forgive but not forget.
人は許すが決して忘れないものだ。

forgive (713) for 禁止 + give 与える
許す。
forget(712)for 禁止 + get つかむ
思い出せない、忘れる
頭の中のある記憶がつかめない。。。思い出せない
忘れた。forget

for-は禁止、除外、無視を意味する接頭辞
(あんまり語数はありませんでした。)

forbear(709)差し控える
forbid 禁止する


annoyance(75左) ォノーイアンス

U 1 (行為、事に対する)苛立ち、腹立たしさ
annoyance at ~
annoyance with ~
困惑
with annoyance

C 2 厄介な事、迷惑な事、悩みの種

to one's annnoyance
ひどく腹の立つ事に

annoyed (75左) ォノーイド
形 通例 be annoyed
1 (人などが) (人などに/ 事・人などに/~すると・・・して)腹を立てて、苛立って、ムッとして

be annnoyed with
be annoyed at
be annoyed that節
be annoyed by
be annoyed when節

I'm annoyed with myself for not reading the situation.
私は事態を把握できない自分に腹立った。

be annoyed at ken's rudness.
ケンの無礼な態度に腹を立てる。
be annoyed by the commitee's decision.
委員会の決定に腹を立てる。
※受動的(受け身的)意味合いの多い場合にby を用いる。

2 (人などが) (事などに) 悩んで 困って
be annoyed by

annoying
形 (事 人などが)腹立たしい、厄介な (人をいらだたせる)、うるさい

have an annoying habit of doing
~をして人をいらいらさせる癖がある。

habit(819左)ヘァビット(この表記法はさすがにどうだ?)
復habits ツ
U 習慣 癖

annoyingly (文を修飾して) 腹立たしい事に

あまりにも語彙力がなく、
文法の知識もないので記憶の定着がいまいちです。
しかし、私自身の自発性がないといくら優れた教材があっても宝の持ち腐れです。

求めよ さらば 与えられん
です。

文法方面からも攻めてみたり
嫌味なくらい日常で使い倒したりしないとダメですかね。




求めよ さらば 与えられん

求めよ さらば 与えられん
尋ねよ さらば 見出ださん
門を叩け さらば 開かれん

本当にこの言葉の通りです。
求める物が今までわからなかったか、
求める気持ちが足りなかったんでしょう。

未来への手がかりはないように見えて
神様はきちんと手の届くところに用意してくれています。

ありがたいことです。

室町幕府歴代将軍 未了

足利将軍歴代一覧

初代 足利尊氏
二代 足利義詮
三代 足利義満
四代 足利義持
五代 足利義量
六代 足利義教
七代 足利義勝
八代 足利義政
九代 足利義尚
十代 足利義稙
十一代 足利義澄
十二代 足利義晴
十三代 足利義輝
十四代 足利義栄
十五代 足利義昭

管領
鎌倉府
鎌倉公方
関東管領
三管四職

アベが行けないので代わりにEUの代表が来る。 アベ信者「安倍総理スゲー」

アベちゃん(敬意を表したくないので最近カタカナ)
がヨーロッパ歴訪を中止した。

なんならうちらが行きますかと
EUのユンケルさんが来るそうな。

「安倍総理の影響力スゲー」
「こっちが行けないのに、向こうから来るって
日本の存在感は半端ない。」

。。。という動画をチラと見た。

面白い人達だ。
アベちゃんが何をしに行こうとしたのか?
ユンケル代表が何をしに来るのか、
その点については考えていないようだ。

新しい日欧EPAの調印式らしいですが、
私は手放しでは喜べません。

確かにチーズやワインが今までより安く手に入るし
自動車輸出も販売に有利になります。
しかし、国内の産業が淘汰されることは確実です。

仕方のない事ではありますが、
1回壊れた供給システムを
復活させるのは難しい。
そして、欧州で大災害があったりしたら
安価だった製品が高騰するし、
その時に国内産に代替えしたくても
淘汰されて生産できない。

という事態になります。
酪農製品だからまあ命には関わりませんが。

2,3年前に嫌韓まとめで、グローバリズムの負の側面に苦しむ韓国を見てきましたから
FTAとかEPAとか、メディアや政府が喧伝するメリットの裏に大きなデメリットが隠れているのではないかと不安に思います。

果たしてユンケル訪日は
「安倍総理スゲー」的な武勇伝に入るのか
EUの都合があって、予定が狂うとまずいから
来ただけじゃないのか?と
私は考えてしまいます。

トランプUSAとの絡みがあるからでしょう。
アベちゃんでなくても
急いで調印したんじゃない?


(平成30年7月12日当日追記)
経済活動が地理的に大きな枠組みで循環する事自体に
私は不満はありません。
便利だし、自由貿易の恩恵を享受しています。

しかし、いざ天変地異が起こるとも限らない。
オーストラリアやカリフォルニアの干魃は
日本にも大きな影響を与えます。
また、中国に日本の工業生産拠点が移転していますが、
中国国内の社会不安が高まったり災害が起これば
日本は大ダメージを被ります。

そこで経済の効率性、合理性ばかりを優先する事には
私は反対してきた訳ですが、
レッセフェールのグローバリゼーションにも
反動的保護主義にも限界があると考える今日この頃です。

神様の視点があれば良いのにと思います。
ピッチ上に立つ選手や監督が
リアルタイムでウイニングイレブンのプレイ画面の視点から自分や相手の位置を確認できたなら
便利なのに。。。

テレビ中継でもあの視点だから
「今、シュート打てよ!」
「何でそこにパス出すのよ」
と文句が言えますが
ピッチ上に立つプロ選手は横からの視点しかありません。

だから、ワールドカップに出場した選手達は
練習により培った想像力がすごいと思います。

世界経済もイマジネーション豊かに
分析しないと解決策は見いだせないのでしょう。
山の高みに登って状勢を分析する知恵と
現場の駆け引きや人間心理に通暁していること
どちらも必要であると思います。


世界全体が一人の人間のごとく有機的に連動することを
夢想します。
人体は細胞が神経やら臓器やら筋肉やらに
特化して細胞の分業が進んでいます。
健康な人は末端の細胞まで生き生きしていて
怪我をしても修復出来る。

そんな世界になるのであれば
地球全体の統一国家体もありだと思います。
世界の人が理性的に行動すれば
争い事はなくなる筈です。

ところが、誰が世界の心臓になるかとか
頭脳になるかで必ず揉める。

だから、節度、モラル、ルール、法律などが大事であって法律を守らない、ルールを守らない人が
ルールを真面目に守る人より得をする社会を作っちゃあ
行けない。

それは組織とかコミュニティのモラルやモチベーションを下げ活力を失わせます。

モリカケ事案を国民が見過ごせば
それを模倣した逃げ得が横行しても
ああ、またかと慣れっこになります。
これが一番行けない。

外交で説得力を持つ為には
ルールの範囲内でフェアプレーをしなければならない。
多少のラフプレーを許容すべしとの論がありますが、
それは、自分のレベルアップには決してつながらない。

特に日本は軍事力が無いのですから、
法に則った大義名分を離れては外交で存在感を発揮できません。

また、つまらない文を書いて時間を無駄にしました。


英単語連想学習「だるい」~ languid,lazy

また、アホな事を思い付いた。。。
おろしや国酔夢譚(もちろん映画です。読書嫌いです。私は)で大黒屋光太夫達がルビジモフ達からロシア語を覚えた時に
「エトチョワ」を連呼してボキャブラリーを増やしていきました。

目につくものを手当たり次第連想して英単語覚えたら
良くないだろうか?
題して「エトチョワ連想作戦」
しかし、3分でこのアイディアにお腹一杯になる。

「イカンイカン、やらない内に飽きたらイカン!」

だるい気持ちを英語で何というか調べよう。


※おことわり
発音記号の入力が難しいので不本意ながら
カタカナで再現していますが
ムリがあります。
早口で読めば正しい発音に少しは近くなるかと思います。
発音とアクセントは辞書の巻頭でご確認下さい。


languid レアングィッド
(Wisdom1026左)
形 1(文)力を抜いた、無気力な、うつろな
2のんびりした、のどかな、活気のない
※「だるい」はこの語が近いらしい。
languidly
副 だるそうに

It was a hot, languid summer day.
暑い、だらっとした夏の日だった。

They proceeded at a languid pace.
彼らはだらだらとしたペースで進んだ。

Somehow I feel languid today.
どういう訳か 今日はけだるい。



languish レアングィシュ
(英1026左)
三人称単数形languishes レアングィシイズ
過去形 languished レアングィシュト
現在進行形 languishing レアングィッシング

自 (人が 場所に 長期間) やむなくいる。閉じ込められる。languish in ○○

13 Boys and their coach languished in Thailand cavern.

languish in prison.
刑務所に閉じ込められる。

boy 219左
How's my boy. 調子はどうだ? (男友達の会話で)
Boy 間 おやまあ、わあ Oh boy
Boy,you're great! やった、すごいぞ!
Oh boy. あ~あ、やれやれ (否定的)

coach 339左
元の意味は大型の馬車
初めてそれが使用されたハンガリーの村 Kocsが語源

複数形 coaches
1 C コーチ 指導者 監督
2 U 米で エコノミークラス 普通席
coach class
fly coach to New York.
エコノミークラスでニューヨークに行く。
4 C 4輪大型馬車
5 C 主に英で 長距離バス

cavern 291左
1 C 大きな洞窟
2 広く暗い場所

Thailand 1866右
名 タイ
旧名 Siam
公式名 the Kingdom of Thailand
首都 Bangkok

Thai 1866左
1 C タイ人 タイ国民 the Thai (Thais)
2 U タイ語
形 タイの タイ語の タイ人の



languidは文語的表現のようだ。
表現が固いらしい。
「だりぃ~」っぽくない。
類語を探したら
lazyがあった。

lazy (1035右) レイジ

比較級 laizier
最大級 laiziest
(yをiに換えてer,estを付ける)

1(非難して)怠け者の、怠惰な、だらけて、無精の
対 hardworking (837右)
He is too lazy to answer letters from other.
(彼は怠け者である 手紙の返事を書くことに 他人からの)
彼は人からの手紙の返事を面倒くさがって書かない。

2くつろいだ、のんびりした、けだるい。
spend a lazy day at the seaside.
(のんびりとした1日を過ごす 海辺で)
on a hot lazy afternoon.
(ある暑くてけだるい日の午後 に(on))

laziness レーイジネス
U 怠惰
lazybones
C くだけて 時に呼び掛けで 怠け者 ものぐさ太郎


素朴な疑問 今の時代マネーストックって増えても意味あるんだろうか?

経済発展はマネーストックが増えることらしいです。
銀行は手持ちの現金(資本)以上に
企業や個人に貸し出すことが出来ます。

わざわざ現金を引き出さなくても
取引出来ますが、
その性質を利用して別の債権の信用で
新たに人に貸し出す事ができます。

でも、もしその債権が回収不能だったり
今後そうなったら。。。
経済は大変な事になります。

世界は今格差が広がっていると言われます。
天文学的な金額のマネーが世界を飛び回っています。
しかし、額面上は天文学的でも、
実物経済は果たしてどうなのか?

自由に使えるおカネがどれだけあるのか?
大富豪も実は中身は不良資産だらけなのではないか?
大富豪だがフェイクだ。
それを本人達は気づいている。

だから、富の再分配に及び腰なのではないか?
実態は一生使いきれない額の資産をもて余しているのではなく、いつ手持ちの資産の、どれかが不良債権になるか不安で仕方ないので、手当たり次第にかき集めているのではないか?

自由主義社会の頂点に立つのは
大富豪の資本家ですが、
資本家はカネが無くなればただの庶民。

マネーストックは際限なく増やせますが、
地球にある資源は有限です。
頭の良い大富豪はそれをよく知っている。
だから、恐れている。

大航海時代なら
マネーストックが増えても
実物経済も後から追い付いてきた。
しかし、70億人の人口で
森林田畑が荒廃し耕作不可能な土地が増えている今
マネーストックの増大は
果たして意味があるのか?

有限である様々な資源と
際限なく増やせるマネーストック。
そのギャップの実態を把握する事が
世界の平和と繁栄に直結するのではなかろうか?

。。。なーんてね。



何が赤坂自民亭だよっ(怒)‼

私も豪雨被害は5日の時点で恐怖を感じていました。
気象庁の会見と
Webの天気予報で見たこともないような雨量グラフを見ました。
線上降水帯だっ‼
今日7月5日なのに8日まで断続的に降る‼

大変だ。
かと言って他人事ではない。
岩手にも起こりうることだ。
カネもないし、義援金も送れない、
勉強しよう。
リハビリ的勉強をして就職を急がないと
と思っていました。

確か災害対策本部設置は7月8日日曜日の朝。
「遅っ」て思いましたよ。
気象庁が記者会見したので
政府で既に対策本部設置済みと思ってましたが、
今さら感がありましたね。

素人ですが、5日の時点でヤバイことが起こりつつあると
私にもわかりました。
尋常じゃない量の雨が3日も降ったら
大災害になるのは火を見るより明らかだ。

そんな中で
赤坂自民亭などという
懇親会をする神経がわからないし、
この災害は現在進行形だと思います。

豪雨をきっかけに
波状攻撃のように連鎖的に災害がおこる可能性もある。
そんな復旧を急がねばならぬ時に
カジノ法案だかIR推進法案だか知らないが
よく審議出来ます。

何でテレビはこの失態をもっと報道しないんだ。
アベはいつも口ばっかだ。
災害対応する政府に対して文句いうなと
いう人も多いが災害対応を手抜きでやられたら
被災者の人達がたまったものではない。




イエスの12使徒 未了

(平成30年7月10日)

Wikipedia 使徒の項より
ルカによる福音書に上げられる12人

1. シモン・ペトロ

2. ゼベダイの子 ヤコブ

3. ヨハネ

4. アンデレ

5. フィリポ

6. バルトロマイ

7. マタイ

8. トマス
トマスはアラム語で双子を意味し、
ユダ・ディディモ(ギリシア語で双子)とのギリシア語の記述から本名はユダで、イスカリオテのユダらと区別するためにあだ名で呼ばれたらしい。

ガリラヤ(北イスラエル地方)で生まれ
AD 72年12月21日にインドで殉教した。
伝説だとされてきたが、使徒行伝の中に登場する
インド王グンダファルと同名の刻印のある金貨が見つかり伝説の信憑性が高まっている。

イエスの復活を信じなかったトマスの言行により、
イエスの復活の仮現説は否定出来るとされる。

しかし、トマスを信奉する一派はグノーシス主義者で
正統派教会から排斥された。
トマスによる福音書はグノーシス主義的色合いの濃いもので、イエスの事績に関する記述はなく言行のみであるのが特徴で、42のアグラファがある。

福音書の存在は知られていたが
1945年にエジプトでコプト語で書かれた完本が発見された。
(ナグ・ハマディ写本)


9. アルファイの子 ヤコブ

10. ヤコブの子 ユダ

11. 熱心党員と呼ばれたシモン

12. イスカリオテのユダ

福音書によって構成員の名前が異なる事、
ほとんど言及されない人物もいることから、
イエス時代の史実でないと考える研究者もいる。
ルカの十二使徒という概念は、後に「正統派」協会に
おいてドグマ化し、広く定着した。

「正統派」教会

ドグマ(dogma)(Wikipediaより)
宗教宗派における教義の事
広義では「教義」の意から派生して
「独断・偏見的な説や意見」
教条主義をさすようになった。

ドグマ(ブリタニカ国際大百科事典より)
ギリシア語では
元来 公的機関の政治決定・命令を意味した。
さらに哲学諸派の学説をもさした。
しばしば柔軟性を欠く無批判な信念という侮蔑的意味で使われる。

dogma(529右)
ドーグモ
1 教理、教説、教条、定説、信条
2 独断的な考え

dogmatic
ドグメアティック
独善的な

dogmatist
ドーグモトスト
独断主義者

dogmatize
ドーグモタイズ
独断的に主張する。

四福音書
マタイ伝
マルコ伝
ルカ伝
ヨハネ伝


徳川歴代将軍 未了

初代 徳川家康(日152)
二代 徳川秀忠(日153)
三代 徳川家光(日154)
四代 徳川家綱(日170)
五代 徳川綱吉(日171)
六代 徳川家宣(日172)
七代 徳川家継(日172)
八代 徳川吉宗(日186)
九代 徳川家重(日189)
十代 徳川家治(日189)
十一代 徳川家斉(日197)
十二代 徳川家慶(日201)
十三代 徳川家定(日218)
十四代 徳川家茂(日217)
十五代 徳川慶喜(日218)

※偏諱(かたいみな)はルールがわかると面白い。
日本には高位の人の名前を賜る習慣がありました。
昔は赤の他人は家康殿などと呼びません。
上司なら親方様とか若殿、大殿、上様などと呼びます。
対等な間柄では官職名で呼んだり、通称で呼びます。
本名を呼ぶことは古代から続く禁忌だったのではないでしょうか?
主君や高貴の人から諱を一字賜るのは大変名誉な事でした。

大体武将の名前はその家に代々伝わる字と時の有力者の偏諱の一字の組み合わせで出来ています。
代々伝わる字は通字(とおりじ)・系字と呼ぶらしい。

長尾景虎は長尾一族の景の字がついていますが、
多くの一族で嫡子は○景
他の一族は景○と言うように通字の位置で
嫡子・庶子の区別があります。

景虎の父は為景(為は誰の偏諱かわからない)、
景虎の兄は晴景(12代将軍足利義晴の晴
成り上がった為景が一族の権威付けを狙い
足利義晴に献金した見返りに偏諱を得た)
景虎は嫡子ではなく、病弱な兄にかわり
家督を継ぎました。

関東管領の上杉憲政が北条氏康に逐われて
越後に亡命すると
景虎は憲政を保護しました。
憲政は景虎を養子にすることで
関東管領の地位と上杉家の家督を景虎に譲ります。
この時憲政から「政」の偏諱を賜ったので
上杉政虎となのりました。

その後上洛して13代将軍足利義輝に拝謁し、
義輝から「輝」の偏諱を賜ったので
上杉輝虎。

その後出家して謙信入道になります。
それで上杉謙信の名が定着したわけです。

誰から偏諱を賜ったかで
その武将の元服時にその一族が
どこの勢力に従っていたかが分かります。

通字の有名な例としては
徳川本宗家の「家」
伊達家の「宗」「村」
毛利家の「元」
武田家の「信」
安東家の「季」
尼子家の「久」
宇喜多家の「家」
奥州藤原氏「衡」
などです。

徳川家も家康の子の偏諱は政治情勢が強く反映されています。
信康(信長の偏諱に松平家通字)
秀康(秀吉の偏諱に松平家通字)
秀忠(秀吉の偏諱に松平家通字)
頼房(秀頼の偏諱)

徳川御三家の当主などは
秀頼に気を使いつつ、秀忠の後継が確実なので
徳川本宗家と一線を画す命名だと思います。




救国宰相の虚像と限界

私は「和米対中」戦略を考えています。
和米は媚米、従米に堕しやすい。
そこがジレンマです。

かといって中国やロシア(朝鮮半島は洞が峠なのであてにしません)接近してもあまりメリットはないと思います。
21世紀の大国として台頭しつつある中華人民共和国。
国内に大きな矛盾を孕んでいようとも、
アジア的専制国家の伝統があるので、国家の上に君臨する中国共産党が弱体化しない限り、ゾンビのように不死身であり、日本は長年米側に与してきた歴史と
地政学的に中国やロシアの大洋進出の蓋になっていることから安定的な同盟関係は築けません。

中露と仲良くすれば良いと考えている人に問いたいのですが、中国が日本の領海の海底資源を狙っていることや、中国の外洋進出への野心に関していかなる見解を有しているのか聞いてみたいです。

「庇を貸して母屋を乗っ取られる」ように
外洋への道を開いてあげたら、
中国の野心がますます増大し、
外洋進出拠点港として
沖縄や日本本土の良港が強かな手練手管で
中国人民解放軍の手に落ちるのではと
私は懸念しています。

ロシアも北方領土を決して手放しません。
プーチンとメドベージェフ・ラブロフは
言うことやること正反対です。
プーチンは経済協力を得るために思わせ振りに降るまい
ロシアの国家としての本音の行動をしているのは
メドベージェフらです。

残念ながら、日本はアメリカとの同盟しか安全な道はない。
アメリカはそんな日本の足元を見透かして、
強引に市場解放をせまります。
国家戦略としての規制緩和政策は
アメリカ政府とアメリカ政治家のスポンサーの
帝国主義的な圧力なのです。

アメリカは日本を守ると恩着せがましく感謝を迫り、
更には経済面で譲歩を迫る。
これは冷戦終結後甚だしくなりました。
アメリカの東側に対するショーウィンドウとして
西ドイツと日本は発展しましたが、
冷戦後はショーウィンドウとしては用済みだし、
東西対立の結果、繁栄を謳歌する日本が目障りになった。

レーガン政権はソ連を崩壊させましたが、
財政赤字は膨らみました。
その後のアメリカ政権は盛んと日本を叩きます。

まさに日本国は絶体絶命の危機です。

私はネット保守と考えが違うのは
安倍総理を熱烈に支持するばかりでは道は開けないと思うのです。
日本国総理大臣の地位はもともと不自由な地位だと思います。エドガー・フーバーでもないですが、
アメリカは与党や閣僚のスキャンダルを握っています。
一度米国に噛みつこうものなら、手段を選ばず
政治生命を絶とうとします。

だからどうしてもアメリカには下手に出ざるを得ない。
これは安倍総理でなくても、仮に立民が政権をとっても
変わらないと思います。
離米を訴えても、アメリカにこってり絞られるでしょう。

この状況下で総理大臣に向く人は
楠木正成や張遼文遠のような孤塁を守るにたけた
知謀に溢れる政治家です。
(好悪別にして安倍総理は「攻めの人間」守りはド下手です)

そして孤塁を守るだけでは
戦況はかわりません。
城を脱け出して味方を募り、
孤塁を囲む敵を逆に不意打ちで殲滅する
別動隊が必要です。

私が安倍総理なら、
モリカケを奇貨として問題発覚時点で総辞職します。
北朝鮮情勢が緊迫しているのを理由に
辞意を表明しつつ事態が落ち着くまで在任し、
麻生副総理にワンポイントリリーフをしてもらって
花を持たせます。

野党が新内閣は国民に信を問えと要求したら
解散し、麻生さんに衆院選の勝利をプレゼントする。
これが成功したら安倍院政、安倍大御所政治の開幕でした。

大御所安倍晋三のミッションは
政府高官というオフィシャルな立場ではなく、
隠然たる勢力で政府内与党内の親米派、親グローバリストを牽制し、離米・嫌米の核すなわち対米外交の
日本側のムチの役割を担って欲しかった。

安倍晋三氏の個性・長所は攻める役回りが向いています。

しかし、安倍政権5年間で総理官邸の権力集中には成功したものの、その集中した権力を淀ませることなく
次代に継承するシステム作りは怠ってきた。

また、元々ポーズだけ上手く(アピール上手は悪いことではないが)アピールでごまかす事に味をしめて
実務を疎かにしても巧みなアピールで乗り切るようになった。
これは本末転倒であり、
政権交代が起これば安倍政権の虚飾粉飾は必ず暴かれます。
自民党政権が続くならあまり気にしなくてもよいのに
官房機密費を使い昭恵夫人を通して籠池氏に100万円渡したりなどしている。(現在その事実は否定中)
この原資が安倍氏個人が自腹で支払ったなら
足立康史議員が言ったように美談であり、
詐欺師に騙されたとして同情も集めたがそうでもないらしいし、
昭恵夫人は安倍総理のお友だちとのパイプ役として
積極的に行動している。

安倍総理の5年間は恐らくやましい事だらけなのでしょう。具体的には総理の地位をフル活用して
お友だちを優遇し、その見返りを
違法ではない(贈収賄の立件が難しい)形、
政治資金規正法の笊の目を通す形で
得て来たのでしょう。

だから総理の地位に恋々としがみつく。
院政など思いもよらない。

アベ応援団が喧伝するほど
アベは立派ではなく、敵を作りまくり
徳をもって従わせられず、
恐怖と利でしか人を動かせないのでしょう。

だから私はアベは孤塁の守将としても失格だし
(危機管理の失態が多すぎる)
別動隊となり義勇軍を募る将軍としても失格
(人徳のなさ)
だと思います。

和米のアメの役目を担う勢力と
離米のムチの役目を担う勢力が
相呼応してアメリカの年次改革要望書をはねつける。
そんな強かさを身に付けないと日本は100万年
アメリカの属国でしょう。

柏原天皇って誰だろう?

表を書いていてふと思ったのですが、
歴代天皇の諡(おくりな)には
法則性があります。

44代 元正天皇までは、弘文天皇(大友皇子)の曾孫である
淡海三船が漢風の諡を一括撰述しています。

その後は御陵の在所や、退位後の住まいの地名を諡とした事例が多いようです。
(諡の由来は現時点で調べていません)

醍醐天皇、後醍醐天皇
嵯峨天皇、後嵯峨天皇など
既にある諡に後をつけて別の諡になっている天皇は
26人おられます。

そんな中で私が写し漏らしたかと
一瞬不安になった天皇が5人おられます。

後小松天皇(100代 北朝6代 1382~1412)
後柏原天皇(104代 1500~1526)
後奈良天皇(105代 1526~1557)
後水尾天皇(108代 1611~1629)
後西天皇(111代 1654~1663)

小松天皇や柏原天皇という名前がない。。。

慌てましたが、どうやら天皇の別称が先にあったようです。


小松天皇は
光孝天皇(58代 884~889)の別称 (山陵の名にちなむ)です。
柏原天皇は桓武天皇(50代 781~806)の別称
奈良天皇は平城天皇(51代 806~809)の別称
水尾天皇は清和天皇(56代 858~876)の別称
西院天皇は淳和天皇(53代 823~833)の別称

後西天皇は当時は院号を追号する習慣だったので
「後西院院」が本来のところ院の時の重複を避けたそうです。
明治から天皇号で呼ばれましたが、
後西院天皇、後西天皇と両方で呼ばれていたのを
大正14年に後西天皇に定められました。

以上 余談でした。


神武天皇(神日本磐余彦天皇) 未了


※天皇御歴代を筆写し、ブログに転写した事で
元号と日本史のつながりが頭の中で強くなりました。
これを普衍して藤原氏の摂政関白、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府、内閣総理大臣のインデックスを作りたいと思います。また、藤原四家、源氏、平氏等氏族系図と人物の事績もまとめたい。

書物を読む際の助けになるので、
ヨーロッパ・アメリカ・中国などの日本国外や
歴史分野以外も同様のアプローチをして行きたいです。

神武天皇

狭野尊(幼名)

皇兄3人
五瀬命(いつせのみこと)
東征でトミビコの矢に当たり落命。

稲飯命(いなひのみこと)
熊野に転戦する際に海難に合い入水した。
後裔として 新良貴氏が見える。
また稲飯命を新羅王の祖とする説もある。

三毛入野命(みけいりののみこと)
海難に合い入水。常世国に行ったとされる。
後裔氏族は不明。

吾平津姫(あひらつひめ)
神武天皇の后妃。
阿多小椅君の妹。
手研耳、岐須美美の母
(隼人の有力者の妹か?
阿多とは古代の薩摩半島地域の呼称。
隼人と呼ばれる人々が住んでいた。
阿多隼人、大隅隼人とならび称され、
薩摩隼人の語は後代に使われるようになった。
神武天皇の兵力に隼人の人々がいたのは興味深い。


手研耳命(たぎしみみのみこと)
神武天皇崩御後に神八井耳、神沼河耳(綏靖天皇)
兄弟を除こうと画策するが、逆に討たれる。
義理の母であるイスケヨリヒメを
妻にした。

岐須美美命
事績、子孫の記述なし。

伊須気余理比売(いすけよりひめ)
大物主神の娘。
神八井耳命
日子八井命
神沼河耳命
の母。

神八井耳命
手研耳命を討つ際に手が震え弓を入れなかったという。
この事を恥じた命は弟が皇位に即く事を進める。
多臣の祖(一説に従えば太安万侶もこの皇子の後裔)

日子八井命
一説に神八井耳命の子であるとも
茨田連、手島連の祖。

神沼河耳命
後の綏靖天皇。

高倉下
神武天皇に布都魂の剣を奉る。
天香語山命と同一視される。
尾張連の祖。

ヤタガラス
賀茂県主の祖。

道臣命
天孫降臨に従った天忍日命の後裔で
大伴氏、佐伯氏の祖。
物部と大伴は朝廷の軍事を司ったが、
物部は国軍的役割を、
大伴は天皇護衛の役割。即ち近衛軍の役割を担ったようだ。

大物主神
古代史の謎を解く鍵を握る神。
三輪山に祀られる神で
大国主神と同一視される事から
出雲族の神か?

ニギハヤヒ
天火明命、ニニギノミコトの弟とされる
大和にいち早く天下りして
長髄彦と共に国を治めていた。
ナガズネヒコの妹をめとり生まれた子が
ウマシマヂノミコトであり
物部氏の祖となる。

長髄彦
縄文勢力説もあるようだが、
出雲族に近いか?

改めて神武天皇の伝説の登場人物を調べると、
大和地方には東征以前から確固とした統治勢力がいたように私には思えます。
だからこそ、神武天皇の東征は難事業であり、
難波からの上陸を断念し、
紀伊の国日高から熊野、吉野方面へと迂回して
進軍したのかも知れません。


◎阿多君
日向三代は
ニニギ
ホオリ
ウガヤフキアエズ
の事をさしますが

ホオリノミコトの兄がホデリノミコトで
海幸彦山幸彦兄弟の海幸彦にあたります。
このホデリノミコトが阿多君の祖と記されています。
(平成30年7月11日追記)


カテゴリの再整理について

聴乾録 学思篇・逍遙篇を
まずはネットで発表できるように努力したいと思います。

そこで今はブログのカテゴリを
再整理していく予定です。
ブログ開始当初の記事は今よりもレベルが低いので
与太話カテゴリに含めようと思います。

しかし、考え方はそうは変わらないので
良い部分は今後のブログに活かして行きたい。
本来は全部削除すべきかも知れませんが、
卑怯な気がします。

カテゴリで与太話と
今伝えたい記事とをまずはより分け
将来的には後者をブログではなく
wikiのようなホームページに移項したいと考えています。

私は頭が良いのか悪いのか分かりませんが、
学校の成績は進学するに従い下がっていったので
馬鹿だと思います。

しかし、直感力のような物が優れているようにも感じます。それに記憶力には自信があります。
これが元で仕事場では一番初めは優秀そうだと勘違いされます。

学習障害があるらしい。
集中力が本を読んでいて散漫になるのですが
なんで気が散るのか
最近理由が分かって来ました。

「分からない言葉」を放って置けないのです。
よく読書百遍意おのずから通ずと言いますが
私には一遍の通読が難しい。
いつも100ページで飽きてしまい、読了出来ませんでした。

最近は多少読み飛ばしても
通読する本は多くなりましたが、
どんなジャンルも100ページで飽きます。

結局「わからない言葉」の数が一定数を超えると
受け付けなくなるのではなかろうか?

これが、読みなれた三国志やら日本史やらの本だと
比較的最後まで読めるのです。
「わからない言葉」が少ないからではなかろうか?

そこで思いついたのが、
本を読む前に言葉を理解しよう
事柄の時系列を把握しよう
という勉強法です。

そこから始めないと私は知識が頭に定着しないようです。
これで知識を効率的に身に付けたいと思います。

その他に、私は仕事の動作や手順を覚えるのは
もっと苦手です。
これに関してはWebの体裁を整える事を実験台にしようと
思います。
もしかしたら「わからない動作」をわからないままにしているから身に付かないだけかもしれません。

しばらくはこのブログでは
「分からない言葉」を調べる記事が
延々続くかもしれません。

大雨災害には衝撃を受けました。
被災した方々に対して何か出来るだろうかと考えたり
明日は我が身だと考えたりしています。
少しでも早く確実に人生を前に進めるしかないのでしょう。





アベ信者にはなりたくない

安倍政権は大いなる破局、
カタストロフが待っている。
私はそう予感する。

私の予感は的中した試しもないので
杞憂であることを願うが、

安倍内閣の政策が全ての面で
行き詰まりを見せるようになってから
非アベ派へのアベ信者の攻撃は
常軌を逸するようになったと思う。
さらにモリカケ問題以降拍車がかかった。

とにかく、アベ信者は叩きやすいところを叩く。
韓国、中国、北朝鮮を叩き
在日コミュニティを叩き
弱り目のマスメディアを叩き
非力な野党を叩く。

叩くのは構わないのだが、
彼らは日本の危機の本質に迫ることが出来ないのではないかと思う。
彼らの守るべき日本は
日本ではなく自民党清和会ではないのか?

とにかくアベに火の粉がかからないように
細心の注意を払いながら発信する言論は
私には理解できない。

自民党からカネをもらっているか?
勝ち馬に乗りたいだけなのか?
アベ信者の愛国烈士の皆様の忠勤ぶりには
辟易する。

政党は自民党だけあれば良い。
本も新聞も読むな。
テレビも見るなと
のたまう方もいる。

アホや~~。

と率直に思う。

アベは泥舟だ。
私はアベの泥舟に乗るのは真っ平御免だ。
どうせ同じ泥舟でも
自分が作った泥舟に乗って沈みたい。

また、あわよくば沈まない筏を
もっと欲を言えば木の船を作りたい。
ノアの方舟のような皆が乗れる大きな船を
いざというときのために
造って置かなければならないと
私は思う。

そんな訳で私はアベ信者は辞めた。
みんなが同じ方向を向いて行動するのは
安全なようで危険だ。
保険をかけておくべきだ。

安倍政権を批判したり
諌めたりするのは
もはや私にとっては暇臭いことである。

それよりは泥舟でない方舟を
作ることを夢想する方が
はるかに有意義だ。

しかし、安倍政権の政策検証に
編年体的アプローチをして
矛盾・問題点を指摘するのは
方舟造りの良き用材にはなりそうだ。

私の考える方舟とは
カタストロフを乗り越える為の
崇高な思想と
それに根差した合理的な解決策だ。

私一人が泥舟に乗って沈むならそれでも良い。
杞憂ですむならそれで良いのだ。
















クールジャパンよりマニアックジャパン

日本はみんなが何かをマニアックに追求することで
グローバル競争を生き残るが出来るのではないかと思います。

ナンバーワンではなく、
オンリーワンを目指すのです。

規模の面で競えば中国やアメリカに負けます。
日本は小さい。
しかし、海から高山まで狭い国土に凝縮されていて
さらに南北に長い。

このコンパクトにまとまった国柄が
長所です。

世界中の全ての人を対象とするより
一部の好事家が満足するマーケティングを
行った方が確実だし、マニアックに追求するのは日本人の気質にも合います。

世界の大多数の人が理解不能でも
一部のマニアが「アメイジング!!!」
と叫んでくれたらそれで良いのではないか?

私のブログもニッチでマニアックな内容に
していきたいです。

紀伝体より編年体が優れていると思う

編年体は紀伝体に比べ
読み物として面白味にかける。

だが、虚構が混じる余地が少ない。
(出来事自体をでっち上げるなら話は別だ)

紀伝体は人に軸足をおき
その人の実像をありありとつたえるが
いかんせん、歴史を誌す者のイメージが投影される。

だから、その人物のイメージは長く
固定化されてしまう。
悪名高き人物も実像は割りと真面目であったりするし、
その逆もある。

編年体は事実を時系列的に並べるので
歴史に客観性を持たせることが出来る。
しかし捏造した出来事を混入させる事が出来るので
完璧ではない。

公文書を破棄するのは
言語道断である。
決裁後に書き換えるのも
犯罪に等しい。

歴史の真相を見えなくするからだ。

当世の役人の小さな誤魔化しは
後世の人々の大迷惑である。

公文書の信頼性が高ければ、
政策の温故知新もしやすい。

日本は歴史認識問題で苦しんでいる。
政府与党は自虐史観からの脱却を叫びながら
自分の都合の良いように
事実を改竄して何の痛痒も感じないのか?

そのダブルスタンダードが行きすぎれば
それは即ちその人やその国家の信用を失墜させ
ひいては発言力を低下させる。

だからこそ
公文書の信頼性を高める為に
時の政府に不都合な事があっても
改竄や隠蔽、破棄などしてはいけないのである。

アメリカ合衆国は
国家として野蛮・粗野な成り立ちをしている。
暴力で大きく政治が動いてきた歴史がある。
だから公文書の保存管理は厳格になっている。
けなしながら誉めるのも悪いが
政権交代が無血でしばしば起こるアメリカ政治の
長所であると言える。

私は裁判官になるわけでもないし、
歴史家になるつもりもない。
しかし、歴史の真相を知らなければ
現在の事象を理解することはできず、
未来に起こる事柄も予測できない。

すると私自身の問題解決能力が向上しない。
現実社会で物事が停滞している原因を掴めないのだ。

日本の戦時の蛮行も
誇張されているきらいがある。

例えば南京は太平天国の乱の戦場にもなった。
しばしば戦場になっているから
人骨が新たに発見されたといっても
遺骨に付着した放射性同位体の炭素による
年代の比定などをしてもらわないと俄には信用できない。

南京大虐殺は当時の南京市の人口より多くの人を
殺したことになっている。
明らかに数字を盛っている。

また、日本兵は中華民国軍の便衣兵に苦しめられた。
軍服を脱いだシナ兵が日本兵を襲うのだ。
国民党軍の方がアンフェアである。
便衣兵は民間人の衣服をどこで手に入れたのだろう?
恐らくめいめい勝手に退却時に同胞から略奪したのだ。
その証拠に国民党は戦後シナ大陸民衆の支持を失い
台湾島に逼塞せざるを得なかった。

また、督戦隊という部隊がいる。
督戦(漢989下)
とは自軍を励まし戦わせる意だが
国民党軍の督戦は手荒である。

自軍の退却を許さないのだ。
退く味方を機銃掃射で殺す。
これが督戦隊の役目だ。

つまり大東亜戦争における
敵味方の蛮行を全て日本軍に押し付けている。

だから日本の賠償とか謝罪とかする
前段階で日本側の弁護人を立てた
歴史の裁判のような検証が必要だろう。

そうでなければ、全ての日本国民は納得しないし
戦争を遂行した無責任な輩の断罪も出来なければ、
(再発防止につながらない)
兵士だったご先祖様の名誉回復も出来ない。

また、いつまでも日本兵の蛮行を
持ち出して上下関係を強要するかの国に
毅然とした態度がとれない。

私は編年体的なアプローチで
今後は歴史を学びたいと思う。
そして、近現代史を日本その他の
国の資料を時系列的にならべ検証したい。

そうすれば、年代に辻褄の合わぬところが出てくる。
その矛盾は真実を明らかにするカギになる。










国姓爺と水戸学

西尾先生には学者らしい慎重さがあるので
好きな先生です。

攘夷思想の淵源は水戸学にある
水戸学に行き着くんだという話が耳に残っています。
最近、「華夷転変」という言葉を思い出しました。
江戸時代、シナ大陸(こういう時シナを使うと便利!)では
漢人の明が滅び、満州人の清が成立します。


1616 ヌルハチ 汗位即位
後水尾天皇 元和2年
前年 大阪夏の陣(豊臣氏滅亡) 同年 徳川家康没

1636 太宗 ホンタイジ 後金、国号を清と改める。
明正天皇 寛永12年
(めいしょうと読む)
諱 興子(おきこ) 徳川秀忠を外祖父に持つ。
1635 参勤交代の制定む。
1636 長崎の出島なる。
1637~1638 島原の乱
1639 鎖国のはじまり ~1854 嘉永6年まで

1644 李自成 明を滅ぼす。
毅宗 崇禎帝は紫禁城裏山の煤山で自害。
同年 山海関守将の呉三桂 李自成に従うを良しとせず
関門を開き清に投降。
清のシナ大陸支配が始まる。
後光明天皇 寛永21年

このシナ大陸の事態の推移を
当時の日本の知識人は華夷転変と呼び
中華と夷狄がひっくり返ったと
滑稽がりました。

夷狄であった満州人を中華と認めなかった。
当時は三代家光(1623 元和9 ~1651慶安4)の治世でした,
明の衰退・滅亡を目の当たりにした
家光公は日本こそ「真の中華」であるとの野心をもっていたのではないかと思われる節があります。

幕府の権威を高めるのに
日本版の中華思想、華夷秩序を打ち立てたかったのかも知れません。
ブレスケンス号事件(寛永20年)によるオランダへの謝礼使節の派遣要求はその一環かもしれません。

そんな中、明の遺臣達は南に逃れ
清に抵抗します。

1646 正保2年 後光明天皇
鄭芝龍が日本に明側の救援を求めますが、救援を断ります。
鄭芝龍はその年降伏しますが、日本人の母を持つ
鄭成功はあくまで清への徹底抗戦を続けます。

この鄭成功は三陸沿岸の人には身近に感じられるかもしれません。
虎舞という伝統芸能で虎にまたがって見栄をきる
和藤内という人物こそ、国姓爺 鄭成功です。
(山田町内の境田虎舞は扮装が黒色の長烏帽子に髭を書いていて日本ってぽいので同じ虎舞でも加藤清正の虎退治の扮装だと思われます。
山田町民はカブるのが嫌いなんでしょうか?
ほとんどの虎舞の和藤内は唐様のエキゾチックな出で立ちをしています。)

近松門左衛門(1653 承応2 ~1725 享保9)の国性爺合戦
は1715 正徳5年に初演されています。
人形浄瑠璃、歌舞伎で演じられて大評判だったようで
俵物を江戸上方に輸送した水夫達が憧れて始めたのが
虎舞の起源のようです。

千里が竹の虎退治の場面なそうです。
深掘りして今日知りました。

和藤内は怪力に任せて
人喰い虎をやっつけて
伊勢大神宮のお札の御神威ですっかり虎を大人しくさせる。
そして虎狩りに来ていたダッタン兵(和藤内の敵)も
手下にしてしまう。

それで
「この虎が欲しくば 和藤内の味方につけぇ‼」
と大見得をきるわけですね。

(三陸沿岸は文化的先進地帯だったと
声を大にして私は言いたい。)

鄭成功は
1650年 慶安3 厦門を拠点とし
1659年 万治2 南京を包囲しますが、失敗
1661年 万治4 寛文元 オランダ人を駆逐して台湾を拠点とします。(以降 1683年 天和3 まで鄭氏支配 )

明の復興は果たせず 1662年 寛文2に鄭成功は亡くなりますが、
その清朝への抵抗は
日本に強い文化的なインパクトを残したのでした。
だから彼の死後50年経って国性爺合戦が大ヒットしたのだと思います。

朱舜水をはじめとする明からの亡命儒学者達が
後世に与える影響も強かった。
もともと朱舜水は明の遺臣達の救援の使者として
日本にやって来ていた人ですが、
南京攻囲失敗後 本格的に亡命
その時に黄門様こと水戸光圀公が学問の師として
招聘したことが
水戸学や大日本史編纂の原点になったようです。

徳川御三家の1つでありながら、
朝廷を圧迫する本宗家とは距離を置き
勤皇を打ち出した水戸光圀の胸中は
どんなものだったのでしょう。

明治期の廃仏棄釈や神仏分離のような政策を
先駆けて領内で行っていたとは知りませんでした。
あるべき秩序を回復すれば世の中は治まると考える
理想家だったのかも知れません。
藩を挙げての文化事業は民草の負担になった側面も
見過ごせない事です。

朱舜水と水戸光圀の思想の交流を
調べると幕末の尊皇攘夷思想、
明治の御一新、
昭和の皇国史観の底流に触れる事が出来ると思います。

再びチョウケンロクを書く

四柱推命の三奇の項に
得体得地の文言があり
地支に激烈な七沖のある人間は
呂望をして渭水の釣り爺にする。

呂望とは太公望の事だが
太公望が文王に見いだされぬまま
渭水の釣叟として一生を無為に過ごす
という意だと最近読んで気づいた。

釣乾録とは三奇の項の釣叟の呂望の
文言から得たネーミングだったが、

釣叟の呂望のまま終わるのはいかがなものだろう。
また、天を釣るとは不遜である。

そこで釣を聴と改める事にした。
天を釣り上げようとするのでなく。
天の声を聴くのである。

聴乾録の最初の構想はこうであった。
篇の字は竹簡木簡の書物に対する
子供じみた憧れでつけた。

始計篇
天下国家から自身の生までの基本姿勢を考える篇。
孫子にあやかっている。

学思篇
知識・教養を蓄える篇。
論語の一説にあやかっている。

不畏篇
中長期的な展望で事柄を論じる篇。

不散篇
喫近の事柄を論じる篇。

不畏不散両篇は司馬法の言葉による。
「遠きはこれを視れば(じっくり観察する)すなわち恐れず、邇(ちか)きは視るなければすなわち散ぜず」
から来ている。

逍遙篇
哲学・宗教・詩歌・文学を論ずる篇。

論語の逸話による。
弟子たちに各々将来なりたいものを
質問したときに、最後に答えた弟子が
「春の天気の良い日に子供達もつれて
魯の都の郊外に散歩に行きたいのです。」
と言ったので孔子が「私もそうだ」と
感心して同意した。

孔子は詩を大事にした人なので
この弟子の言葉に当意即妙の
詩的な感性を見出だしたのかもしれない。

可能であれば命卜相の勉強も取り上げたい。
自分の命式しか占って来なかったので
他の人の命や、五術の山・医にも関心を
広げるかもしれない。

このようにかっこの良い
タイトルを付けたものの
ブログカテゴリに使うのには
適していない。

そこで政治・経済時事問題とか
思索・雑感など分かりやすいが
散漫になりやすいタイトルをつけた。

最初は書く習慣もなく
継続が目標だったが
どんどん書き散らしてまとまりがなくなってしまった。

せっかく歴代天皇をずらり記しても
元号を大化から平成まで並べても
与太話記事に埋もれてしまっては
読者に不親切である。

ブログのカテゴリ分けを改善しようと
思ったが、
始計、学思、不畏、不散、逍遙
に優るアイディアが出なかった。

私は卒業論文を書いたことがないのが
コンプレックスだ。
大卒何するものぞ
という対抗心はあるものの
自ら主体的に授業を選択し
卒業に必要な単位をとって
卒論を書いて大学を出てきた人には
気後れする。

社会人の仕事の基本は
自分で仕事を見つけて
ゴールを設定して
課題をクリアしていくものなので
大学生はその訓練が出来ていると思う。

聴乾録は卒論的なものとして書きたい。
しかし、大学生は1本の卒論の為に
3年勉強する。

学思篇、逍遙篇から着手して
二篇の合金のような始計篇を作りたい。
始計篇の基本姿勢が定まってこそ
不畏篇、不散篇の精度が増す。

始計篇は後回しになるのだが
まったく何処を指向するのか
決めていないのも不安である。

そこで目標とすべき偉人を6人書き出した。

上杉鷹山公は破綻した米沢藩を立て直した人だ。
大変謙虚で温厚で誠実な君主だったが
七家騒動や竹俣正綱の専横には毅然とした処分を下している。

楠木正成は型にはまらぬ発想で
赤坂城、千早城を守り抜き
建武の新政の立役者になった。
また、時流を観るに敏でありながら
後醍醐天皇への忠節を貫く様は
人間としての鑑であると思う。

平清盛はどちらかというと天皇の権威を脅かした人間のように思われるが
既成の権威を恐れず現実を見据え
先進的な政策を行った点を学びたいと思った。
武士という命のやり取りをする人々の日常生活から
紡ぎ出された日本版の合理主義は
源平合戦を経て誕生した武士の世の賜物である。

渋沢英一は恐ろしく業績を残した人だ。
私が強く憧れるのはこのような人で
戦前の日本には全国各地に
立派な名士がいたと思う。

別府温泉をプロデュースした人などは
私の理想の将来像だ。
山田町を始め、地味な三陸地方を
巨万の富をつぎ込んで
洗練されてはいるが嫌みのない風光明媚な土地にするのが夢だ。
代わりにやってくれる人がいたら
応援する。

聖徳太子は十七条憲法が大変な功績だと思う。
子孫が残っていないので
事績には伝説が多いのかもしれないが
記紀編纂当時からしっかりと顕彰されていたのか
疑わしいところもある。

実像は神秘的なものでなく、
先見性のある有能な政治家だったと信じたい。

維摩居士は古代インドのヴァッジ国の首都
ヴェーサーリーに住んでいた事になっている
長者のお爺さんで、
十大弟子や菩薩にも説教じみた皮肉をいうので
みんな辟易している。

実は維摩居士の正体は東方善快国妙喜世界の
阿シュク如来の元で修行を積まれた
大変な徳の高い菩薩である。

私は維摩経に説かれる
現世を浄土として生きる思想が好きだ。
娑婆世界は苦しみに満ちた不平等な
デコボコとした世界だが
本当は優れて平等な世界である。
そう見えないのは見る人の知恵が曇っているのだそうだ。
理趣釈経には客塵という言葉もある。

だが、強がって
汚く見える娑婆世界を
知恵の目が曇っていると言われるのが嫌で
他人に自慢したくて
見えもしないのにこの娑婆世界は荘厳であると
いう人は
残念ながら100万年たっても仏様から救われないと思う。

世界が本当は美しいのに
私にはそうは見えない。
私に知恵がないのだと
自分自身を受け入れる人の側に
仏様の救いはある。

人の機根を完全に見抜けるのは
仏様しかいない。
普通の人は見えっぱりの知ったかぶりには
気づかない。
誤って称賛しさえする。

それで満足というなら
仕方がない。
ただし、本当の悟りの道には遠い人である。

私には娑婆世界が大変汚れて見える。
だから私自身が仏道修業が足りないという事なのだ。

今生は何がしかの修行であるという
人生観を今後の思索の最深部に置きたい。






私が目標とすべき人

最近ブログ記事が
アベ批判ばっかりになっているが
対策なき批判ではいけない。

言葉はブーメランである。
これは当然である。

言葉はもともと両刃の剣なのだ。
自分の発した言葉が
ブーメランとして直撃するのは
「謙虚になれ」との神様のメッセージである。
大変ありがたい道理なのだと思う。

だから私もアベに対して
対案ある批判をしたい。

「私がしたいことという記事」を書いたが
究極的に私のしたいことは3つ

1.維摩居士のような有徳の長者になり、有縁の人を
物心両面で支えたい。

2.日本の自主独立を勝ち取る。

3.世界の平和と繁栄に貢献する

具体策はまだわからない。
だが、目標とすべき人はだんだんわかってきた。

1.上杉鷹山 至誠を貫く果断な人
2.渋沢英一 私欲の少ない殖産家
3.平清盛 流通と経済に通暁した新秩序の担い手
4.楠木正成 優れた戦略家
5.聖徳太子 和の精神の礎を築いた人
6.維摩居士 在俗の聖者。道理の体現者。
仏弟子をも論破する自在の人。

この人々に学びたい。

日本代表に「立ちはだかる世界の壁」について考える

私は
一番メンタルの弱さに問題があると思います。
特に西野監督の采配には
リスクを冒さず手堅い采配をしようという考え方があった。

ポーランド戦は
サムライと称される日本がやってはいけない
無気力なプレーを試合終了間際に行い
世界から顰蹙を買いました。

私は日本は試合巧者のチームスタイルを標榜して
よいレベルにたっしているとは思えません。
「勝ちたい」という気持ちが強いチームの方が
ワールドカップのような負けたら終わりの短期決戦では
ボロボロになっても頂点を極めます。
う。

また、日本人は
背も低いし、手足のリーチも短いし
玉際での1対1には苦戦を強いられます。

それを補うためには

日本代表はカウンターを常に狙い
ボールタッチを極力少なくして
相手ディフェンスの裏を狙う。
これを主な戦術にします。

また、守備は前線からプレスをかけて
相手のパスの出し手に完璧な姿勢で
前線にフィードさせないこと。
パスミスを拾ってシンプルにゴールに迫ること
攻め込まれることは味方のツギノチャンスであると考えて攻撃スイッチをいつでもいれるようにすることです。
(ここで失点しても日本の選手のポテンシャルは
底が知れません。絶対に攻めあいには勝てる筈です)

さて、問題は日本のカウンターがチームカラーになると
必ず相手チームはカウンターを恐れて
人数をかけて攻めなくなります。

アジアの国々では恐らく
退いて守るチームが多いと思います。

このチームにもカウンター狙いは有効だと
思いますが逆に相手もカウンターを狙い
退いてくるのでスペースを利用した
サッカーは苦戦を強いられるでしょう。

速いパス回しによる「遅い攻め」とロングシュートの多用が攻撃が第2の戦術オプションです。

それでも攻めあぐねると思うので
ロングシュートにも
ループシュート、グラウンダーのシュート、
ダイレクトシュートと
多彩なシュートを楽しんで打ってほしい。

おしゃれなゴールは
失敗すると「真面目にやれ」
と批判が殺到するので敬遠されますが
相手の意表をつくという点では
有効ではないでしょうか。
どうしても強いシュートだけだと
国を代表選手のゴールキーパーは
レベルが高いのでなれちゃいます。
ヒールで流し込むとか、遊び心を
取り入れてもいいかもしれません。

ジーコ監督が「シュートは強さではなくコース」だと
言っていたそうですが、
日本はパスがうまいので、ゴール隅にラストパスすれば
面白いように点が入ると思います。

私は日本人の決定力不足は
実は幻想だと思います。
選手、監督、サポーターが思い込んで
殻を作っている。
結果としてシュートする人間に
過度なプレッシャーがかかっているのではないか?

4試合で6点とっています。
良い態勢でコースを狙ったシュートを
打てば世界にひけをとりません。

西野監督のしばしば垣間見られる打算的な采配は残念でした。
日本代表はイタリア、オーストラリア、北欧のチームのように最後まで奪ったリードを守るサッカーは向きません。

2点以上の接戦に持ち込み勝ちきる
「攻め合いのサッカー」が向いていると思います。

日本の立て続けの2失点は
ベルギーの戦術変更
(恐らくそれまでより前がかりになった)への対応が
遅れたためではないかと思います。

日本は失点を恐れず
再び積極的なスピードプレーで
前がかりのベルギーのこぼれ球をひろって
3点、4点と狙って欲しかった。
(そうすれば日本は4-3 3-1)などで試合を終われたかも知れません。

そして、アディッショナルタイム
ベルギーの美しいカウンターが
決まってしまった。

「延長戦」という言葉が
みんなの脳裏に浮かんでいた時の隙でした。
一瞬のワンチャンスをものにしたベルギーは
見事という他ありません。

「ワールドカップで優勝したい」
という気持ちがベルギーに負けていた。
もしかしたら
「ワールドカップで優勝したい」という気持ちが希薄なことが日本選手の底力発揮の妨げになっているかもしれません。

素人の癖に分析するのは
私も暇人だと思います。
しかし、兵法(人間心理の学問)のエッセンスが
スポーツにはつまっています。

日本代表はどうすれば世界の頂点を取れるのか
考えて
積極的で、献身的で、スピーディなのが一番ではないか
と考えたとき、
自分にブーメランで反ってきました。

どんな分野でも夢を追いかけ頂点を極めようと努力する人の生きざまは人生の参考になります。

成績は
1勝1分2敗です。
冷静に考えると結果はあまりよくありません。
10人少ないコロンビアに勝っただけ
ポーランド戦ではアンフェアな行為で非難されました。

しかし、世界的に反響がありました。
選手の皆さんが魅力的なパフォーマンスをしたのは事実ですし、
西野監督の短期間でチームの結束を固めた手腕は
素晴らしいと思います。

勝ちきるって難しいです。
徒然草に「高名の木登り」という話かまあります。
正直古文の授業で読んだたけですが、
木から降りる寸前が案外危険なのです。

追記
私は新聞のスポーツ解説記事を読んでいます。
日韓ワールドカップで敗退した時にイタリアについて
デルピエロ選手の逸話がのっていました

デルピエロ選手はシュートの名手ですが
少年時代に家のガレージをゴールに見立てて
シュート練習していたそうです。

お父さんが暗くなっても練習できるように
ガレージに照明をつけてくれました。
デルピエロ少年は益々熱心に練習し
しまいには、ガレージ照明のスイッチに的確にボールをあてて
シュートで消したりつけたり出来るようになったそうです。

デル・ピエロゾーンは一日にしてならずですね。
超人的プレーは日々の地味で愚直な鍛練から生まれるのでしょう。

(平成30年7月5日追記)
日本代表に限らず、ボールを回して時間稼ぎをして
体力を温存して勝つという方法は
時代遅れになったような気がします。
アジア、アフリカなどのレベルが上がって
実力差がなくなってきているので
南米欧州の強豪でも
少しでも隙を見せると、追い付かれてしまう
ような気がします。

今大会では技術・戦術の面では日本は互角以上に戦えることがわかりました。
どの試合でも相手チームはやりづらさを感じている
印象を受けました。
また、経験を活かして臨機応変にプレイスタイルを変える選手達には非常に頼もしさを感じました。

日本代表は様々な点でベスト8どころか
優勝することの可能な水準にあると思います。
日本のサッカーを嫌がっていたし恐れていた。
プレイスタイルも見ていて楽しく美しかった。

足りないものは勝負に対する貪欲さだけかも知れません。

私自身勇気付けられた事は確かです。










元号は面白かった。

たていとの書
経書は儒学の言葉です。

さっぱり私には読めない。
一行二行で引っ掛かり
堅い岩の破片に雲母が輝いているのを
感心してはそこで満足してしまいます。

なんとかして
たていとの書を読みたい。

今はたていとの書の用語から覚えるのが
回り道のような近道であると考えています。
元号を時系列順に書き写して並べるのもその一貫ですが、

かなりの頻度で
甲子の年と辛酉の年に改元が行われていること
が興味深い。
甲子革令、辛酉革命というそうです。
陰陽道の影響が強く残っていて面白い。
これはシナ、唐土では廃れてしまった文化のようです。

革は改めるの意があります。
64卦の沢火革の卦
「革命断行の時は来た」という意味なのですが
革命は暦を改めることから始まります。

元号を廃止し
西暦に統一した方が経済効率がよくていいと
主張する人がいますが、
暦を改めるのは日本文化の否定に等しい。

ロマン派と呼ばれる人達は
理神論の行きすぎを目の当たりにして
キリスト教は「西欧文明の要石」(シャトーブリアン)
との認識をしめしています。

日本の皇室中心の伝統文化は
私は日本文明の要石だと考えます。
ですから、天皇家は
日本の神道文化の継承者かつ
日本の文化伝統の庇護者でなければならないと思います。
それを天皇家が怠ったとしたら
天皇の存在意義が揺らぐでしょう。

ただの王様とかわりなくなり
国費で何不自由のない生活を送っていると
あらぬ疑いを持たれます。

それはさておき、
日本の年号のついた歴史的な事件や書物がかなり多い。

大化の改新(乙巳の変)
承平、天慶の乱(平将門、藤原純友の乱)
保元、平治の乱

承久の乱
貞永式目
文永の役
弘安の役

建武の親政

応仁文明の乱

明暦大火(この間の大江戸でやってました)

いつからいつまでが明暦年間であるか
知っていれば感覚的に
いつの時代で、同時代に世界の出来事に
何があったか調べられます。

そのリンクをいっぱい頭に作れば
歴史書の経書を読む際には
大きな武器になります。

平成30年7月4日追記

先月6日に天皇陛下125代を書き始め
今日元号を書き上げました。

安徳天皇のすぐ次の天皇が
後鳥羽天皇なのは以外でした。
よく考えてみれば承久の乱の時は上皇です。

後鳥羽天皇の時代の元号を列記すると
元暦 1184~1185
文治 1185~1190
建久 1190~1199
正治 1199~1201

文治 文でもって世を治める。
建久 久しきを建てる。
正治 正しく治める。
(平成30年7月10日訂正)
正治年間は後鳥羽の次の土御門天皇でした。


後鳥羽天皇の親政への気概が感じられます。
貴族から武家の世という
パラダイムシフトに一人で抗う切なさも感じられます。

ただし、貴族政治はもはや機能不全に陥っていました。
社会の実情にあわなくなっていた。
恐ろしい話ですが
今の国会は平安貴族化しています。
このまま行くと「悪党の時代」が来そうです。

ただし最後に勝つ人は
曲がりなりにも道理に従い
天下の大多数を味方につける人でしょう。

楠木正成は何故千早城の孤塁を守りきれたのか、
周辺住民の熱心な協力があったからです。
北条氏に対する反感を持つ人々の協力をあおぐ事ができた。

ところが建武の新政後
後醍醐天皇の寵臣に対する贔屓と
行政の継続性無視の急進的な政策によって
混乱が生じて民心は離反した。

だから足利尊氏を九州に追いやったあと
後醍醐天皇に涙ながらに尊氏との和睦を具申した。
民心の離反を招いては改革の実を上げることは出来ないと思います。

北条泰時という人は
偉大な人です。
貞永式目は
古代の律令格式の知見と
当時の社会の慣例から作られました。

評定(裁判)の場でも
道理が口癖だったそうです。

帝に弓を引いたといって
過小評価するべきではない。

ナポレオンも戦争の達人ですが
ナポレオン法典を作った功績も大きいです。

徳川家康も貞永式目を大いに参考にしたようです。


ベルギーは攻撃陣三人と守備陣七人の連動を封じれば勝てそう

ベルギーは守備的な列に7人、
攻撃的な列は実質3人です。

それだけルカク選手以下の
キープ力を信用しているのでしょう。

しかし、彼ら三人のみだと
単調な攻撃になりそうです。
前三人のボールキープから
他の選手も徐々に上がってきて
攻撃に厚みが出ます。

速攻が大事ですが、
押し込まれた時は遅攻で相手の
守備陣を引かせて
ルカク選手を孤立させてから
速攻に転じた方が良い。

そうすれば、少しはルカク選手の勢いが削げます。

ベルギーはスペースを潰す布陣をしてきているので
遅攻で押し込んで、
頃合いをみてスピードアップした方が良いかもしれません。

今のフォーメーションを相手が焦れて変えてきたら
チャンスでしょう。
それまであまり失点をしなければ
勝てるかも知れません。